森田童子の「チィチィよ、ハァハァよ」を聴いてウズウズしていた。
インデックスを読んでいたら、この歌のタイトルはあとで変えられたものだと気がついた。「えっ、そうだったのか」、それがどの時期かは、ここではわからないがこの天才的なタイトルが突然、舞い降りたヒラメキの賜物とわかると「名作にはヒラメキがいるんだよな」と深々と納得。
続いてね、クドカン・ドラマ「不適切にもほどがある」を見ていてね、思い切り思いついた。「チィチィよ、ハァハァよ」にも「チィチィよ、ハァハァよ」がいるということ。森田童子のおかげです。
父や母にも、父や母がいる。というこの簡単な当たり前を現代人はうまく受け止めることができていないのでは、という考えがね「オイオイ、そうだね」と思いついたのです。
えー、どうして。
実はぼくもそうだった。
親の親の話を聞いてもほぼ「あ、そう」で通り過ぎてしまった。きっと、よくわからないんだなあ。自分が親を好きなように、親が親の親を好きなことを。
ところがね、小川市郎(阿部サダヲです)にはタイムマシンがある。そこんところが自由自在なんだ。親になったり、同僚になったり、恋人になりたがったり。まるで俳優のように人生の位置を変えることができる。
「どうして俳優になりたいんですか」
「いろんな人生を経験できるるから」
という役者志望の人たちの志望動機を全部吸収してしまう。
「母さん、母さんにも青春時代があるわけで」
倉本聰は「前略、おふくろ様」というかつての人気ドラマの中で人生というものの存在感をドラマ頭の「母との手紙」の読み上げで学ばせようとするのですが、クドカン・ドラマでその役目はタイムマシンだ。
これは、わかりやすい。だってマシン(機械)だからね。
ズカズカとどこにも出ていく。いろいろわきまえない。
そのぶっきら棒で無機的な出会いが、いわば映像のハードボイルド表現になっている。否応なく、ほんとを突きつけてくる。
小川市郎はいかにスケベ人間だったか。
母親は何に愛想を尽かしたのか(まだ出てこないがやがて出るだろう)
聖人でもないし、(子どもが特に嫌う)生きている生臭さをなんとか吹き消すことで、父や母の人生の選択が見えてくる。
映像上では、近寄りすぎると発生するあの電気パチーンの効果が大きくてね、パチーンとすることで生な感触を消しています。だから見ていられるのですね。
市郎、純子、渚の三世代の凸凹した人生。見ようによっては、お互いに気恥ずかしい人生。だよね。
「けれど父が好きだ」
「けれど母が好きだ」
という吐息のような言葉、そうして(父と子の愛の)連続性がほのかに見えてくるというドラマなのでしょう。凸凹した人生は愛が埋め合わせをする、しかないのです。
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