「チィチィよ ハァハァよ」
この一行のすごいこと。まいった、まいりました。ハットオフです。
この詩はもう中原中也だね。言葉の鮮度、イタズラっぽさ、つまり青春ぽさは素晴らしいよね。
「チィチィ」と「ハァハァ」、「あれェ、なんだあ」と思うけど「父と母」だってことは、歌い出せばすぐに気がつくよ。だけど、「チィチィ」と「ハァハァ」という文字を読みながら歌を聴いてしまえばそれはもう新しい世界で、イタズラぽい作者のしがらみは古い家族のものとは違う世界にいることを教えてくれる。それまでとは違うんだ。戻れないんだ。
文字で確かめてみようか、
「チィチィよ ハァハァよ
あなたのいい子で いられなかった
ぼくを許してください
ぼくは一人で 生きてゆきます」
普通に漢字で書けば、
「父よ 母よ
あなたのいい子で いられなかった
ぼくを許してください
ぼくは一人で 生きてゆきます」
ほら漢字にするときちんとスマしたお行儀良さそうな表情で、けれどその分、ありきたりの面白くない青春が見えるでしょう。
では、何が変わっているのか。いまぼくらが直面している親子問題というのはねぇ、そういう漢字で書かれた古いものじゃなくて、ほら、生まれたばかりの「ま新しいもの」なんだというあの時代の青春と親子感を知らせる詩なんですね、この詩。
その新しい青春というのは、いつの頃かと言えば70年代の青春のことで、
「なーんだ、ずいぶん古いじゃん」
「そうだね、ごめんなさい」
ま、新しくはない。けれど詩はいま見ても新しいなあ。だってさあ、半分、イタズラっぽい顔をした子が横あいから覗き込んで、ほら、時代の先を見ているよ。誰なんだい、君は。
「70年代は青春を新しくした時代なんだなあ」
とぼくは思い、懐かしさになんだか胸が暖かくなる。でもでも、誰なんだい、君は。
あのー森田童子です。この人の詩はすごいなあ、この人の死は悲しいなあ。きょうもまた思ったわけです。
「初めてタバコを 吸いました
悲しき嘘を 知りました
夕べあなたの 夢を見ました」
「僕たちの失敗」の「高校教師」での再登場でびっくりさせられた。だけれど、ぼくは昔、「ラストワルツ」が好きで好きで
「やっぱり森田童子はすごかったんだなあ」
と70年代の思い出と一緒に驚いたのです。けれど、この歌は一つ違った。
「海が死んでも いいよって
泣いてます すさんでゆくぼくの
ホホは 冷たい」
詩の一つ一つが鮮烈で新しい、でもねぇ、この
「チィチィよ ハァハァよ」
の一行には勝てないなあ。この文字を見ちゃうともう古い世界に戻れないんだ。連れてかれちゃう。持ってかれちゃうんだ。
はじめに帰るよ、中也の「サーカス」のような感触なんだ。
父と母、そして子という、ま、実にかっちり固定化した関係がクラクラと揺れてね、
「親と子の、新しい世界」に立つ自分に出会うことになるんだ。
なかにし礼の著書「血と歌」の中で、森田童子が「死んでくれてありがとうの」となかにし礼が書いた兄貴の娘と明かされていた。その「血と歌」はなかにし礼がなくなった後、なかにしの仏前に原稿が置いてあったという。
森田童子の不思議さの答えがその本の中に隠れているのだろうか。ぼくは「血と歌」まだ読んではいない。亡くなって6年ほどになるのかなあ、本人は何一つあかさずに消えていった。
しかし「チィチィよ」が、あのなかにし礼の放埒な兄というのはどうやら本当のことらしい。不思議はどんどん膨らむね。
森田童子の詩は思い切りの良さにだいぶ負っている。それは、あのなかにし礼の放埒な兄から受け継いだものなのか。
「童子、飲みに行こうか」
地方公演で、なぎら健一が誘ってもほぼ付き合うことはなく、帰っても同じ姿勢でギターを弾いていたことが多かったという。
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