「ヒカル、コーラスのとこやってみな。ここ、ここ」
プレイバックで流れている藤圭子のコーラスパートを
(え、え、えッわたしがやるの、ホント。やったことないのに)
となった。
録音スタジオの黒いソファーにうつ伏せになってノートを広げていた10歳のヒカル、宇多田ヒカルは起き上がった。
「ママの言いつけだ、仕方ないか」
(ママの気ままがついに来たぞ、でもできるかなあ)
ヒカルはママがやっていたパートをなぞればいいのだとすぐに理解した。
(ま、ま、じゃあやってみるか)とマイクの前に立った。これが、ヒカルのはじめての吹き込みだった。
ニューヨークで藤圭子親子は、音楽作りをはじめていた。家族ユニット「Uスリー」は、3人しか仲間がいないニューヨークでの夢の絆で、
「人からもらった歌、歌っていたって仕方ないよ」
この数年、圭子が言い続けたことを実現しはじめたのだ。自分たちの音楽、自分たちの夢、これを家族で紡ぎだす。
「なんて素晴らしいことなんだ」
と圭子は陶然とするほど、夢の中にいた。
自費でスタジオを借り、自分たちで楽器を弾き、必要なら自費でアーティストを依頼し、ひとつひとつ音を録っていく。費用が足りなくなって、スタジオに行くためのクルマを売ってしまったことさえある。藤圭子はそんな時には躊躇しなかった。歯を磨くように、クルマを売った。
ヒカルに頼んだコーラス部とパート構成するママ、藤圭子の声は、さっき聴いたプレイバックの声ですでに録ってあり、そこにヒカルの声を重ねて聴いた。
「あたしより、いいじゃないの」
藤圭子はさっさと答えを出した。どういいのか。藤圭子はさほど言葉を残していないのだが、聴くとすぐさまこの答えの声を出したとされている。家族ユニットの残るもうひとり、宇多田照実がさほどの反応を示していないことと合わせると、藤圭子ならではの能力なのだろう。天才は天才を見つけると、指を上に向けガラスの向こう側にいる娘に、軽くオーケーのサインを出した。
宇多田ヒカルの歌の魅力はと言えば、とぎれないなめからなリズムと流れ、ゆたかな音の表情、というのが答えになるのだろう。
では、それがどこから来るのか。
「一緒に生きると一緒になるよ」
リズムは、ネィティブの中で暮らすことで、もうカラダの一部になっている。英語発声まじりのゆたかな母音は、母音が少なく単調になりやすい日本語の音楽にとって、とても大きな意味がある。
母音が少なく単調になる、これは日本語の特徴でたくさんの歌手が表情のある歌にするために苦労して、トライを続けてきた。
古くは弘田三枝子のハヒフヘホ唱法。
「ハ、わたしはぁ、あなたにぃー、命を、ハ〜預けたぁー」という歌い方。男性では坂本九です。
桑田の巻き舌も、実はその挑戦のひとつです。
日本語の母音5、英語は(鼻母音含め)母音30~31、合わせて35を超える母音を持つことでなめらかでゆたかな歌声が生まれます。その答えは、ヒカルによる本物の「日本語のヒップホップ」の誕生となっていきます。たくさんの歌手が夢見ていたことを、15歳の少女がいとも簡単にやってのけるのです。
母音と音声学への関係は、
「流星のひと。続々 宇多田ヒカルはテレサテンと同じだと言う説。」(11/3掲載)
というタイトルの番外篇の中で少し詳しく説明しています。
藤圭子はヒカルの声を聞いて、ある種の「あきらめ」を感じたようです。それは、圭子のコーラスがヒカルと比べるとかすかに演歌ナマリがあること。これも藤圭子にしかわからないことかもしれない。自分ではっきりとこうだと発言したわけでもない、でも、あるのだ。(それは、後年ヒカルに演歌を禁じた理由で明らかになります)
それは、圭子にとっての「ボクらの時代」の終わりをかすかに教える知らせだった。
そして圭子は自主制作までしたシティポップアレンジの「東京迷路」の空振りと合わせ、自分が生粋の演歌の歌手であることを、この頃はっきりと自覚したのではないだろうか。
「もう言ってしまおう、あたしは演歌の歌手なんだ」
演歌をしっかりと自覚した、藤圭子のはじめての声だった。
だから、ここから歌が変わっていく。本気を出しすぎないように、聴き手に合わせやさしく歌う演歌に。本気のあまり、真正面をキリッと睨み付ける姿も抑え、小さなフリを入れたりもします。デビュー以来ずーと習い続けた日本舞踊のフリとされています。
ここからの藤圭子は、日本に帰るとやはりテレビに出演し、コンサートを熱心に続けます。コンサートは変わらずいつでもどこでもいっぱいで、その中で演歌の藤圭子の歌唱力はいよいよ増し、次々と名演が残されていきます。
次回は、その中で伝説的な二つの名演について書いていきます。
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