○2009年07月20日の日記再掲載
「テリーは店の正面にもたれていた。シャツは薄汚れ、首のボタンは外されて、襟の一部は外に出ていた」
サンセット・ブルーバードの外れで、マーローはまるでクルマにくり返し踏み付けられたシルクの手袋のように、薄汚れた路上生活者となったテリー・レノックスと出会う。
淡くやさしいチャンドラーの小説「ロング・グッドバイ」はこうしてはじまっていく。
ぼくは最近、貧困のことについて関わることが多い。
「カラダを壊して寮を出されて、施設に行くしかないんだ」
はたまた反対に
「派遣切りで仕方なく寮に入りました、はい」
であったり
「家賃が払えなくて、あちこちのネットカフェで寝ています」
と、まあ、こと欠かない。
そんなうんざりする話しの合い間に必ず紛れ込んでいるのが、自分より弱い者へのイジメであり、イジメに名を借りた自己責任論調の説教だ。これがいちばんやっかいだ。簡単に要約すれば
「あいつら、怠け者なのさ」と大きく口を歪めて語ったりする。
うなだれたくなるような気持ちの時、久々に「ロング・グッドバイ」を読んだ。村上春樹判が届いたのでね。(娘からもらってね)
ぼくは、すーっとこころが晴れたような気がした。1頁、1行、読みすすめるたびにね。
そいつはやさしさというものの有り様が身に沁みてくるからだ。抑制の利いた、なんども洗い返した木綿生地のような、やわらかさ、やさしさ。
「夕方、開店したばかりのバーが好きだ。店の中の空気もまだ涼しくてきれいで、すべてが輝いている」
(あー、これは、有名な1行だね)
ぼくに貧困話を語ってくれる人の一人に、横浜でスタンド・バーの店長だった人がいる。
ぼくは、元店長に「ロング・グッドバイ」の一節から話してみる。
「あー、そうですか、おもしろいですね」
プカリとタバコを吹かしながら目をしばかせている。彼は、すぐそばにいる仲間うちに弱い者イジメのもめ事を抱えている。
「これまでにぼくらは二度しか顔を会わせていない。そのどちらの時も君はひとかたならず親切にしてくれた。どうしてなのかい、マーロー」とテリー・レノックスは聞く。
「この次会った時には、もう私の手には負えない面倒に君は巻き込まれているような気がするんだ」とマーローは答える。
ぼくはチャンドラーを読み返すように「抑制の利いたやさしさ」というものについて話す。吹き出すタバコの煙りが少しずつやさしくなってくる。
「マーローはレノックスが好きなのさ。けれどね押し付けるようなことがとうてい言えないのさ」
「そうですね、日本で言えば『冬の華』の健さんの生き方ですか」
「あー、そいつはよくわかりますよ、ここは横浜です」
タバコの煙りがいよいよやさしくなってくる。
ぼくらは(というより団塊の世代その周辺は)競争社会に長く生き続けてきすぎたような気がする。
そういう言わば競争社会の後遺症を抱えた人間にはチャンドラーほどすぐれた薬はないと思う。型通りのやさしさが抱える不自由さ、気恥ずかしさ。そこからはなれた「抑制の利いたやさしさ」というものの有り様を知ると胸の奥が涼しくなる。
ぼくらの世代は少し人生を間違えたようで、まだ直すことはいくらかできそうだと思えてくる。
ま、なにはともあれ、ぼくには速効性のある薬で、夏の日の風通しのいいポーチの役目を瞬時にこころの奥に届けてくれる。
横浜は貧困とチャンドラーがよく似合う、不本意かもしれないが街の香りというものさ。
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