引退からニューヨークまでの藤圭子の動きを時系列で追ってみよう。
79年の末、引退リサイタルが終わり、沢木の何回目かのインタビューも終わるとひとりでハワイに渡り、ハワイ大学の聴講生になった。その手続きはハワイ大学に在籍していた友達が先に進めてくれていて、すっかり準備はできていて着くとすぐに学校通いがはじまった。
これがありえない幸福の突然のはじまりだった。学校、はじめて掴んだごくごく普通の青春。少しだけ年は経っていたけど、わかいクラスメートと英語の勉強に真剣に取り組む毎日。
「たのしくて仕方ないよ。こういう生活がしたかったんだ」
という連絡が日本にあった。
集金日にわざと学校を休んだり、遠足に不参加だったりした子供時代。そんな暮らしの辛さ、悲しさを分かる人たちはもういないのだろうなあ。なんの心配のない学校生活という夢。それがどれだけ得難いものか、藤圭子はよーく知っていた。じーっとこころの奥に溜めていたコンプレックスの一部をハワイの光の下で解き放っていた。もともと勉強が好きだったこともあるが、かつて、普通の子供のように手にすることができなかった圭子の人生の夢をかなえている時間だったのだろう。
ハワイでの生活の拠点は、ハワイの日本人の間ではよく知られるカラオケ・ハウスで、その手伝いをしたりしながら、学校に通い、そしてほぼ毎日のように日本への電話を借りに来た。と元芸人のオーナーが教えてくれる。
年が明け80年の春になるとアメリカの西海岸に渡り、カリフォルニア州のバークレーの英語学校に入っている。
「英語をもっとよく勉強するにはどうしたら良いのでしょうか」
ハワイ大学で半期を終え、進路相談して選んだコースらしい。バークレーでもぼちぼちと友人も出来、それなりに楽しい日々を、過ごしてはいた。そんな中の5月、沢木から製本された300枚の本が届くことで、次の準備が動き出した。あのインタヴュー原稿がまとめられ製本されていた。製本には、はじめの「インタヴュー」という仮タイトルから「流星ひとつ」という新しいタイトルに変わっていた。
7月、藤圭子は製本のお礼と今後の予定を伝える手紙を沢木に送っている。
「あたしは8月15日に学校が終わったら、16日のバークレーでのボズ・スキャグスのショーを見て、それからニューヨークに行くつもりです」
「最初はひとりで旅をしようと思っていたのですが、クラスメートのまなぶさんという人が友達と車でボストンまで行くというので、一緒に行こうと思っています。車で行く方が、飛行機で行くより、違ったアメリカも見られると思うし、8月30日頃までにニューヨークに着けばいいのですから。体に気をつけてください。あまり無理をしないように。沢木耕太郎様 竹山純子、追伸「流星ひとつ」のあとがき、大好きです」
竹山純子は、藤圭子の本名(竹山は母、澄子の苗字)です。
(文末の「流星ひとつ」のあとがき、大好きです)がその後さまざまな推測を生んでいます。が、わかることは 9月を目指してふたりのの共通の意志に変更は見られない、という内容になっていること。9月はアメリカの新学期です。
そのやり取りの中で、
「これから先、あなたがカムバックすることもあるかもしれない。その時、悪い影響を与えないようにこの本の出版を取りやめようと思う」
という提案を沢木がした。その提案に、
「あたしは出すのはいいけど、沢木さんにまかせます」
と藤圭子は答えを返しています。
少し不思議な風が吹いています。カムバックすることを考えている、とすると一緒に暮らすことはあまり考えていないのか。そう考えるのが普通ですよね。けれど9月のニューヨークに向け、日程は進んでいきます。
「いつまでこうしていても、仕方がないのではないか」
と、思いはじめ、ある日友人たちと、ソルトレイクシティに行った時、
「空港に行って、最初に来た飛行機に乗って、どこかに行ってみようと思ったの」
と、友人たちと別れ単身ニューヨークに行ったと、藤圭子は語ります。
これも不思議な記述。なにか来るべき連絡がないのか、見切りをつけるような感触がある旅立ちです。
ソルトレイクシティから夜のニューヨークに着くともはや夜、止まっていたトラックに声をかけマンハッタンまで乗せてもらい、ドライバーにを紹介してもらった日本人女性のアパートに向かいます。8月18日頃です。
その女性カメラマン&ライター(大竹昭子)はアパートにひとり訪ねて来た小柄な女性の様子を見ながら、
「とても小柄で、小リスのような少女のあどけなさを持っていた」
と表現しています。知らない人の家で、でも憧れの街で、心配と興味がひとつになった少女の姿だったのでしょう。
「どうしてニューヨークに来たの。そう尋ねると(日本の著名な作家)沢木耕太郎の本を開いて…」
「この作家のことは知らなかったけれど、本人に会ったらとてもステキな人で、たちまち好きになってしまった。もうすぐニューヨークで会うことになっている。そういって、その本をぎゅっと抱きしめ、作家の名前を小さく呼んだ」
と、その夜の言葉を伝えてくれています。やがてキッチンから聴きおぼえのある暗い声の鼻歌が聞こえてきて
「アレッ…」
小柄な女性の歌声が誰のものなのか気づくのです。
翌日からアパート探しがはじまります。
「ある日、ニューヨークのカフェでお茶を飲んでいたら、日本人らしい女性が通り過ぎ、また戻ってくるのよ。アパートを探していた。それが藤圭子。結局、同じアパートの部屋で3カ月、一緒だった」
と答えるマコことライターの田家正子とルームシェアをすることになる。2〜3日で部屋は見つかり、これで9月になる前にきちんと居場所は定まった。
「あなた、なんでニューヨークに来たの」
「実は、沢木耕太郎を待っています」
女性カメラマン&ライターの時と同じように沢木のことを伝え、同じように原稿を握りしめていた。このアパートで、コロンビア大学のジャーナリズム科に通う予定だった沢木と、一緒に暮らすために待つと答えている。
そしてその後のことは、マコの言葉を借りれば、素敵なバラードの一行のようになる。
「あるルポライターが彼女について書いたものを持っていて。彼女はその男を待っていた。でも、来なかった」
なぜ来なかったのか。そのことに藤圭子はどんな反応を示したのか。どちらもまったく記録はない。(沢木のために、藤圭子は一切、泣き言やいきさつを漏らさなかったということなのだろう)
沢木は、ニューヨークで一緒に暮らす約束の存在についていっさい明言していない。沢木側からたぐれば、嘘があったかどうかさえわからないのだ。けれど、“小リスのような少女”は明らかに目的を失っていた。ましてやセントラルパークを走り回る小リスのように、この街で自由に生きていくのはまだまだ無理だろう。
原稿の受け渡しの時に、吹いた小さな風。あの風は、なにか変更があった知らせなのか。それでも藤圭子は無理押しをしてニューヨークにまで来ていたのか。けれど2度まで「待ち合わせている」と言っている。ぼくの推測はどうだろう。母親がなぜか伝言をリレーしなかったではという。
オータム・イン・ニューヨーク、秋になるとジャズはほとんどがバラードになる。
アパートに入居したときのパーティーに招かれていたのが、取材コーディネートを手がけていた宇多田照實だった。部屋の隅で、カラダの前できちんと手を合わせて立っていた。
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