あの黒い大粒の瞳が泣いていた。いや泣くだけではない、うれしい、悲しい、懐かしい、ゆたかで様々な表情を見せていた。あーどうして、あなたは今日のように表情ゆたかに歌ってこなかったのか。本気すぎたのか。ほんの少しの表情で、ほら、このようにこころは行き来し、自由は広がったのに。やはり本気すぎたのか。
引退記念リサイクルは新宿コマで行われ、
「圭子ーッ」「圭子ーッ」の絶叫の中で進行し、やがて上手の袖に藤圭子が隠れると、藤圭子の人生の終わりのように緞張が下がった。瞬間、新宿の街は巨大な死を迎えた。なにもないように町は動き、人は流れているのだけど、生気は歌舞伎町一体に見当たらなかった。過剰な描写でもなんでもないよ。あの日、新宿はスカスカしてた。
引退会見から半月ほど経って、(執筆中だった)伊豆から一人のライターがホテルに滞在中の藤圭子を訪ねてきた。沢木耕太郎、わかく著名なノンフィクションライターだった。
「インタビューしたい」という申し込みだ。
藤圭子は、月並みだが全共闘世代にとっては自由の旗手で、もし物書きなら「書きたい」と思うのはあまりに当然のことだろう。ぼくは「都電通りの、ドラクロワ」と書いたのだが、あの日の自由の残像はどうしても書かずにおけない時代の姿そのものだっだ。
それに、安っぽい言い方だが、この時期のジャーナリズムにとって、とびきりのネタでもあった。
インタビューがはじまると、沢木にはすぐ困り果てることが起きる。藤圭子に子供時代のことを聞くのだけれど
「おぼえていない」
「わからない」
というばかりでほとんど取材にならないのだ。
これは藤圭子のこころの仕組みを知らないから起きることだ。
藤圭子の子供時代は、普通の人の想像をはるかに超えるもので、いわば悪い夢ようなもの。だから、そいつらを開けてはいけない箱に押し込むことで、どうにかバランスをとって生きてきた。理解しがたいかもしれないが、そいつらは藤圭子のこころの中にはないものになっているのだ。
子供時代という生きてる低重心の部分が定かでない人生。「正義の旗」をかざすことでなんとかバランスをとり生きてきた藤圭子。
子供時代のことを解き放てば精神の統合が失われるかもしれない。かろうじてそれを抑えたのは、藤圭子が沢木耕太郎を気に入ってしまったということらしい。沢木は、(なんともけたくそ悪いが)藤圭子をついこの前まで苦しめた小林繁と同じ見栄えの男だった。雑な言葉で申し訳ないがそっくりだった。あまりに馬鹿馬鹿しいことだが、これも運命なのかなあ。
藤圭子は掘り出すようにポツリポツリと子供時代の話をしはじめた。一生懸命に探り出し、話をすることで、藤圭子は子供に帰っていった。ただでさえ純な藤圭子は、もはや小学生のようになっていたのに違いない。話せば話すほど、ほぐれてくる人生。しかし、精神は明と暗に微妙に揺れている。
いきなり結論を持ち出すのだが、沢木耕太郎は嘘をついた。
人と人の関わりの中で生まれたよく言われる、美しい嘘なのか。なにか意図を持って発せられた嘘なのか。いずれにしろ嘘をついたのだろう。
「来年、コロンビア大学のジャーナリズム科に通うつもりです。
ニューヨークで一緒に暮らしませんか」
この一言が、(ひとりよがりかもしれないが)すでにアメリカに行くことしか人生の選択の余地がないと思い込んでいる藤圭子をとらえた。
ニューヨークで一緒に暮らすという「約束」があったのか。これは藤圭子の関わる人たちの複数の証言がありほぼ動かないだろう。しかし、沢木からの答えはいまもない。
この日くらいから「恋人のように歩く二人」を見かける声が出はじめる。
人はそれぞれさまざまな人生を送るわけで、その往来を揶揄したり、横あいから口を出すものでもない。とはいえ嘘については、少しだけ明らかになって欲しいと思う。これは、人の歴史を歪めることだから。それも、ぼくらの時代の、藤圭子の人生なのだから。
少し急いで、いちばん言いたいことを先に言おう。
「ニューヨーク行きを一種、取材のツールにしたのではないですか」
「ニューヨーク行きなんて元々なかったのではないですか」
という疑問です。
藤圭子の人生はまたも嘘によって蛇行するのか。
あなたは妻子持ちであり、十分に仕事を抱えていた。もしニューヨーク行きが既定のことなら、様々な準備がはじまっていたのではないか。新聞連載が5月に終わる。それ以外の先行きを示す言葉はなかったし、見当たらないようです。100%ゆずって、藤圭子の大いなる勘違いだとしよう。もしそうだとしたのなら、修復する義務はあるのではないだろうか。
ぼくらの時代の先頭を走る、わかく著名なノンフィクションライターは、自作自演のマッチポンプと化してしまうのですか。
「あとがきが大好きです」
と藤圭子はあなたに手紙を返した。
あなたが送った300枚の原稿を製本した本を受け取った、藤圭子からのお礼の手紙です。その時点で、ニューヨーク行きはどういう状態なのか。あとがきの中に答えは収録されていたのでは、という噂はあるが後に出版された時、削除されているのかどこにもない。巧妙なミステリーのように、消えている。
前後の流れを追って読み解けば、藤圭子は怒ることはないのかもしれない。それは、つまり大人の出来事だから。
「ついてないはと言いながら」
と藤圭子らしく、潔く横を向くだけかもしれない。
しかし、嘘の所在だけは知りたい。
流星と流言の悲劇。
藤圭子はニューヨークであなたを待ち、あなたは来なかった。
この嘘の後始末はどうつけられていったのか。まったくの推測だが、藤圭子の母親は関わっていないのだろうか。母親にあなたは連絡する、けれど母親はあなたの連絡をリレーしようとはしなかった。
大好きだったお母さんと藤圭子の確執は伝えられているのだけれど、それは父親の言葉(金銭の使い方と視力に関わる嘘)によるものとされている。だが、そんなことは親子なら時間が解決することだ。それくらいのことは日本中で今日も起きている。時間では解決できないどうにも固いシコリ、そいつが母娘の大きな仲違いを作っているような気がする。
置き忘れてはいけない。推測はともかく、藤圭子はニューヨークで行き場を失っていた。
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