◯2008年03月27日の日記再掲載
「石っさん」のところで少し話した固定観念としなやかな思考について、少しですが説明をさせてください。理屈っぽくなるけど、ごめんなさい。
「年を食ってると頭かたいからね」的なあいまいな一般論で通り過ぎちゃうのは、あまりに決まり文句で無内容なので。
藤沢秀行先生の話しも出たことなので、碁の中の様子で話しを進めます。
いちばんかんたんなところから話しをします。
ある手筋で勝ったとするでしょう。すると百人中百人が次も同じ手を打ちたがります。
それが合理的発想というものです。大人はそうします。
「勝ったんだから、いいに決まっている」となるわけですよね。これ一歩引いて聞くと、実に俗のカタマリのような言葉です。そうです、実にその通りです。
でもみんなその範疇の行動と思考をくり返しているんですよ。
これが固定観念というもので、もっとも進歩をはばむ思考法なんですね。ここんところが普通の人にはわからないというか、そもそも体質が理解できない。
強くなる、上手になる、ということの核心はものの見方、考え方にあるわけです。
「勝ったんだから、いいに決まっている」で同じ手を打つのは、そのレベルで思考を固定化させるもとになるのです。どうせなら負けた手を何度でもくり返して、少しずつ変化させる方がまだしも進歩をうみだしやすいとも言えるわけです。
これがカラダでおぼえる技術との決定的ちがいになるわけです。合理的なことをもとめると、ある種、低レベルで固定化されがちになるわけです。
ただ相手との関係で、勝てばいいというのなら、ま、それもありなのでしょうが進歩は遅いでしょうね。
でね、警察官とか役人といった人には特にその傾向、固定観念大好き志向が強いようです。保守とはなにかの答えになっています。
しなやかな思考というのは、かんたんに言えば、前のことはゼロにして自由に考えるくせを持っているか、ということです。
これ文字にするとかんたんですが、実際のところでできるかというと百人中百人ダメなわけです。となると進歩する思考法というのは、上のような理由で一種、哲学的な意志がどうしても必要になるのです。
「わたしは、こころして同じことをやらないぞ」とかね。
そうでない場合はよほどのヘソまがりだったりするとよいわけです。
「バカらしくて同じことできるか」だったり。
哲学的な教養を持たないと(なかなか)進歩しないわけですから、そもそも新手を目指し続けた藤沢秀行先生のような人は一生が哲学的な人だったとも言えるわけです。
藤沢秀行先生のような大哲学者が、何もない真っ暗な渾沌の闇の中をおたけびをあげながら突き進んで行くとなにやら道ができるのですね。
そいつは普通の人にはできっこないわけで、どうやら道ができ、灯りがともり安心になったら人々は
「ぼちぼち、行こかー」となるわけです。
でね、こんどはしなやかな思考というのは極限までいくと、おたけびに近いものになってくるという話しです。
つまり自分の思考を支えるものがなにもない状態ですから、とにかくおたけびをあげるぐらいしかないわけです。自分のまあたらしい視点を説明しようとすると、どうしても固定観念に寄ってしまいます。なもんで固定観念と距離を取りたいわけですね。うまく説明できない位が、ちょうど良い自由な脳環境でしょうかね。
で、とりあえず「ギャオー」のおたけびになるんですが、それを言葉にすると
「こっちに俺の哲学をかけるぞー、ギャオー」
「理由は後からだぞー」
と主張しているわけです。
その自由な意志を見て時に感動するわけですが、感動するにしても哲学が必要なんですね。なにしろ相手は「ギャオー」状態、とりあえずバカ状態だったりするんですから。
ただし哲学的感動だからとても深いものになるわけです。人生の根本をゆり動かすような深さですね。フワッとカラダが浮いちゃうような感動、固定観念という重力から解き離れてこころがフワッと浮くのです。
えーと、以上、しなやかな思考というのは哲学の問題だ、という一席でした。
ぼくが自由が大事とか、ほんとの自由な思考とは踊りに似ているとか、利巧なんてしれているなど、おりにふれ、ぶつぶつつぶやくのは上のようなことなのです。
名人とされる碁、将棋の達人たちは上のような回路で思考しています。で、それをちがう言葉にすれば弁証法的思考と言えるのです。それもきわめて実際的な弁証法です。
注:石っさん、我が家に来ていた客人の話、今回の前説。こちらはわかりやすい人情話。
藤沢秀行、棋士。ギャンブル中でアル中、家族から打っちゃられ一人暮らし。
新手一生の人生とはいえ見た目はヨレヨレ。
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