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2023年09月12日06:52

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流星のひと。25 永遠のシーソー・ゲーム。

 `79年秋、藤圭子は、二つの不透明な恐怖を抱えていた。  

 ひとつは、ステージ恐怖症という掴みようもないものだった。
 デビュー十周年の舞台の袖、藤圭子はカラダを硬くして、恐怖で立ち尽くしていた。
「大事な舞台だったんだよね。そうなんだけど、ステージ恐怖症みたいになって上がれなくなっちゃったんだ」
「歌詞だけじゃなくて、メロディーも忘れそうになるの。そう言うことが、公演の中、四度か五度、続いたんだよね。自分で自分が怖くなった。もう恐怖なんだよね、また忘れるんじゃないかって。そう思うと、舞台で体がすくんじゃうんだ。ほんと、そうなると、どうしていいか、もうわかんなかった」

 二年前に一度、これと似たようなことがあった。(その時の記述を繰り返そう)
 二度目の紅白落選の後、榎本ディレクターのもとで圭子は、12時間泣き通した。
「よくもまあここまで泣くものだ」と根本ディレクターは半ばあきれたほどだった。
 ところが年が明けると圭子の歌手人生を危うくする事態がはじまった。それが「ステージ恐怖症」のはじまりだった。ステージの上で意識が飛んでしまうのだ。自分はなにをしているのか。どこまで歌っているのか。次の歌詞は。
(この時)圭子は、「これは、引退かな」とはじめて口に出したらしい。
 ぼくは、前回の落選の時、転覆した運命に大きく警報を鳴らさせた。
 この警報はいよいよもうひとつ音が大きくなっていた。音にせきたてられるように無慈悲な力が腰を上げ姿を見せはじめていた。

「男の人はつまらない人ってわかったわけじゃない。それは、あたしに男の人を見る眼がなかった、というだけのことでしょ。でもね、それでね歌を歌うのが辛いなんて、絶望だ」

 そうさ、つまらない男のために歌を失うわけにはいかないのさ。
(男なぞはいくらもいるが、天才はあなたひとりなのだ)
 平静を取り戻せば、2年前と同じようにこころは静かになる。

 そう、そう思いたいのだが、もうひとつの恐怖も入れ替わるようにやってくる。
 それは、喉を痛めて以来、磨いてきた地声で歌い通す本気唱法(ぼくは命がけ演歌と名付けた)が、人のこころに届かないのではないかという恐れ。本気唱法の頂点とも言える「聞いてください、私の人生」が大きなヒットにつながらない。次いで、「面影平野」も伸びない。この二つの流れが、濃い霧のように迷い道を作り出す。

「声がかれても つぶれても
 根性ーッ 根性ひとすじ 演歌道」

 圭子の言葉で説明すると、
「いまね、歌っていて、いちばんつらい歌は『聞いてください、私の人生』っていう歌なんだ。その中の歌詞が、どうしても、歌うたび胸につかえるんだ。終わりの方にさ、声がかれても、つぶれても、って歌詞があるでしょ、曲が好きだから歌うけど、つらいんだ」
 もしかしたら、自分の歌い方がまったく通用せず「声がかれても、つぶれても」とひたすら歌い続けている自分の姿が目の前に浮かび上がるのか。
 おそらく藤圭子もこの歌が、最良の歌に仕上がっていると信じているのだろう。しかし良い数字が出てこなければ、恐ろしい情景がやがて本物になりかねない。(二つの曲ともに歌い続ければ伸びてゆく曲なのだが、瞬間風速は出ていない)

 ステージ恐怖症と本気唱法の手応え、この二つの恐怖がシーソーのように上り下がりして、藤圭子の精神はほとほと疲れ切っていた。
「歌を歌うのが辛い、絶望だ。だったら、やめればいいわけじゃない。簡単なことじゃないか。そう思ったの」
 やめる、引退をする。
 こころの軋みがやっとやっと絞り出した、答え。迷いから吹っ切るためには、圭子には選択肢はそうはなかったのか。

 潔さは藤圭子の個性だが、潔さは自分のために使ってはいけないよ。それは、ほとんどが自分を投げ出す行為で、良い結末につながらないからだ。
 もうひとり味方がいれば流れは変わるのだろうが、藤圭子はひとりだった。

 さあ、昔、こう言ったじゃないか。(シリーズ��)
「子供の時、ほんとに小さな劇場でおじいちゃんやおばあちゃんの前で歌って、よろこんでもらった。わたしも、子供ごころにとてもうれしくて。その時の気持ちを忘れずに歌い続けます」
この言葉をゆっくり噛みしめるにはこころはどうやら疲れ過ぎていたらしい。

 きっかけだが、藤圭子がこのところ続けている売り言葉に買い言葉が出た、というのがありそうな話だがどこにも記録はない。
 それどころか止めに来た新栄プロ西川社長の言葉は直前で変わり、一気に引退の日程に入っていく。
「ぼくは、ついさっきまで止めに来たのだが、入り口で考えが変わったよ。普通はぐずぐずになるまでやるのだが、まだまだ歌えるあなたが引退するのは良いことじゃないかと思えてきた」

 記者会見で藤圭子は「やめる理由はあくまでも私の内面の問題」と説明した。私の内面の問題というのは、一見はぐらかすようだがまったく嘘のない正直な言葉だった。
「自分なりに考えたのですが、いままでと違う人生をはじめてみたいと思うのです」とこれも素直に明日からのことを語っていた。
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