◯2007年02月09日の日記再掲載(大幅加筆)
網走からハガキがきた。網走とは、網走刑務所のことで、まだ刑務所として稼働している時代の話しだ。
ハガキは3ツ折りで、タタミ込むと袋状になって綴じられている簡易ハガキというめずらしい形式のハガキだ。
2年前の拳銃事件を背負って中に入った、村瀬からのハガキだ。
「オジさん、網走に来て1年たちます。
こっちの寒さはとてつもないものです。暖房なんてありません。寝ていると、まつげに霜が降りそうです。
食べ物もひどくて、来る日も、来る日もかぼちゃで白目が黄色くなります。こっちに来れば、保釈も早くもらえると聞いていたので来たわけですが、それだけを頼りにがんばっています」
(オジさんと呼ぶのは、他のカシラに預かりにしてあるのでそうなる。映画「冬の花」では寺田農の役だ。寺田農も親の高倉健をオジさんと呼んでいた)
村瀬は、横綱がハワイから持ち帰った拳銃ベレッタ11口径の事件で出頭して、すべてを背負って服役した。大相撲初のハワイ巡業での事件だ。
横綱がハワイで、おもちゃとして1挺買ってきたと報道されていたが、実は8挺あった。明荷(あけに)の中に詰めておけば税関はフリーパスという「仕掛け」で、これが成功した。
(ベレッタはいっときぼくの家にあったので、銃の数も含め間違いない。片手の中にすっぽり収まる小型拳銃だった)
ところがたっぷり礼をもらったはずの付け人の酒の上の話からもれてしまったのだ。
川に捨てたという苦し紛れの横綱の話から、隅田川を「川ざらい」する騒ぎになったのだが、もちろん、いくらさらってもまねごとで、拳銃はでてくるはずはない。
「横綱を縄付きにはできないしなあ」
と警視総監は困り切った。そこで秘密に根回し話が進んで、
「拳銃は出さなくてよいが、犯人を出してくれ」
ということになり、村瀬が背負って出た。
(拳銃事件よりだいぶ前)
戦争が終わってまもなくの頃、父親が原因不明の高熱を発して近くの大学病院に入院した。けれど、さっぱり原因がわからず、もはやきょうか明日かの騒ぎにまでなった時、
「ここから東の方向の病院に行けば助かる」
というお告げを母親が持ち帰った。京浜間で有名な宮司の一言だった。
「どうしても退院させろ」
「それはできない」
の押し問答の末、村瀬が用意してきたリヤカーに乗せた。まだ世の中は貧乏で、クルマなんてまだない頃で、ぼくはリヤカーのウシロに付いて行ったおぼえがある。片手をリヤカーにつけて。5キロほどの道のりをトボトボとリヤカーを引っ張って転院させた。
村瀬は、よく尽くしてくれた若い衆だった。
「あ、これは胆嚢炎ですね」
父親は、入院するとまもなく熱も下がり、あっという間に元気になった。大学病院のあきれるような見立てちがいだったらしい。
それから40年以上たったかなあ.。村瀬が、父親の葬式にやって来た。ちょっとした不始末から破門されカタギになった身の上だが、昔をなつかしむようにかつての兄弟たちと話しこんでいた。
じっと様子を見ていたわかい男がそばに寄り付いた、どうしても聞きたかったという思いを込めた声でたずねた。
「オジさん、どうしてもっと出世できなかったんですか」
返事に少し時間がかかった。
「そうだなあ。勤めが長すぎたんだなあ」
遠くを思いだすように、声を出した。
「あの時のことを思い出しているんだなあ」
ぼくは、気が付いていた。
あのハガキには続きがあった。
「こっちの冬場は作業ができないので、ヒマばっかりで困っています。キーチャンにも手紙を出してくれるよう頼んで下さい」
父親は、あきれたように言った。
「村瀬のやつなあ、まだ男ができてねぇなあ。出世前の子どもに刑務所に手紙を出せとは、どのツラ下げて言ってるんだ」
気のいい男だが、いい親分になれなかった理由はこんな軽さにあったのだろう。けれどアプレのハシリ世代の軽さをぼくは愛していたのかもしれない。その村瀬もいまはいない。
いまでもおぼえているが、ハガキには1cm大の赤いサクラのスタンプが押されていた。網走の刑務所の、検閲のシルシだという。春になって、サクラの花びらが散る頃になると、赤いサクラのスタンプを思いだす。
サクラの花びらのまん中に「よくできました」と書いてあげようか。
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