1969年10月の新宿は、実は開戦前夜だった。
前年68年には学生と新左翼が警察を圧倒し新宿駅全体を機能不全にする新宿騒乱を引き起こしていた。
翌年の69年にもう一度、新宿で騒乱事件を起こすことができれば、日本は革命前夜になる。新左翼はそう主張し、同じ10.21国際反戦デーを決戦の日とし、全国の学生を動員した。日本中の学生は新宿を目指した。東大駒場、東外大・学生寮などが知らぬ間に学生人口を増やしていた。宿泊地であり集結地点だったとされている。
つまり、新宿には全国の学生が静かに集まってきていたのだ。
たとえば中核派は、10人10列を1軍とした5軍の正規部隊で大ガードに突進した。
薄暗闇のほとんど声のない中で、ガシャガシャとぶつかり合う音だけが聴こえると、学生たちは思い切り跳ね返された。
あるものは顔から血を流し、あるものは昼前から固く閉じられていたシャッターに強く打ち付けられた。
群衆に紛れさせたゲリラが投石などで機動隊の突撃を止める役割をしなければ、勝負は一瞬でついてしまったことだろう。隊列は何回も当たり直すのだが、剥がされるように逮捕され、数を減らしていった。
地理に不案内な地方の学生たちは陣形を失うと、ヘルメットを脱ぎ捨て群衆に紛れるのだがもうどこにも行き場がなかった。
一部は都電跡の辺りに集まり、靖国通りの反対側を埋め尽くす膨大な機動隊を見つめていた。その都電跡をひと月後、白いギターを肩に抱えた少女が歩いて出てきた。学生たちが夢に見た姿、ドラクロワの「自由の女神」のように都電跡から新宿駅へ向けて凱旋して行ったのだ。
新宿戦争ひと月前、9月に話を戻します。
根本の奔走が身を結んだのか、藤圭子のデビューは1969(昭和44年)9月25日になった。だが実情はデビュー曲「新宿の女」は自前のオーダーが1,000枚程あるだけで、ほぼ素手の船出になりそうだった。
石坂は、もうメディアに直接ぶつかるしかないと突撃オーディションを繰り返しはじめた。ディレクターの机の前まで訪問し、ほぼなんの説明もせずにいきなり藤圭子に歌わせるのだ。
「な、なんだ」
ほとんどのディレクターは演歌の直撃にのけ反るのだが、なにがあろうとお構いなしで進めた。
「しかし、これは効果があった」と石坂は言う。そもそも藤圭子の歌の力が大きいし、生の人間の熱量は他に替えがたいものがあるのだろう。
「迷惑と思われるくらいでちょうど良い」ともはや思い込んでいる石坂の強引さもデモの熱量を上げ、効果を上げていた。
フジテレビの千秋与志夫を訪ねた時のことだ。千秋は際限もなく無くやってくる売り込みに興味もなく、デモテープを家に持ち帰りポイと放っておいた。ところが、
「あなた、この子おもしろいわよ。低音はドスが効いているし、高音もきれいだから売れると思うわ」
妻のみどりが千秋に指摘した。みどりとは、歌手の畠山みどりだった。
「きみが、そう言うのならなあ」千秋は自分の番組で藤圭子を推してやろうと思った。
畠山みどりは、藤圭子が八洲秀章に見出され北海道を離れるきっかけになった「出世街道」を歌うご本家の歌手だった。知らないところで、人生の面白さは動いていた。
メディアを一巡したところで、(つまり、熱ったまったところで)11月10日「伝説となった新宿25時間キャンペーンを仕掛けた。新宿の街で、25時間ノンストップで宣伝キャンペーン使用しようという企画で。神社を出発し、昼は楽器レコード店、夜はキャバレー、クラブ、そして夜通しでスナックなどを回ろうというものだ。
いまも残る台本を見ると10分単位できっちり日程が組まれている。
新宿のご当地ソングだと考えれば妥当な作戦だが、それにしても25時間は破天荒だった。18歳の藤圭子の過剰労働にはあきれるものがある。圭子に極度の試練を強いるのが石坂流なのか。だが、メディアは入れ替わり立ち替わりやってきてくれた。
作戦の成功は、ドラクロワの「自由の女神」を思わせる都電跡から出てくる藤圭子の姿が教えてくれた。スポニチが撮ってくれた一枚の写真だった。
「自由の女神」が持つマスカット銃の代わりに抱えたギターは肩の上で跳躍し、藤圭子の歩く姿は新宿の街に進む「自由」そのものだった。
(この写真に感謝を込めてということになるのだろう、以来スポニチには藤圭子番記者ができ、藤圭子側も身内のように情報を伝えることになった)
自由の女神の行進は、見えない群衆を連れてきていた。血染めの学生、破れたシャツの男、疲れてやっと声を出す男、目をさましたばかりの乱れ髪の女。新宿のいまを生きる人々がつながっていた。
結果はすぐに出た。次の週から1,000枚単位のオーダーがあった。その次の週にはもう万単位の注文になっていった。
日本中が新宿に注目し、日本中のたくさんの学生が新宿を目指してやって来て多くは不充足ながらも帰っていった時期、その時代が作り出した新宿への残像がこの歌の魅力を深くした、とぼくは思っているのだがそう外れてはいないだろう。
その残像の中で「新宿の女」は、単なる夜の街の歌から、当時新宿から発信されていた生々しいさまざまな新宿アートの一部へと次第に領域を広げていった。
あの都電跡を抜けた写真が、ひとつきっかけにはなっていた。
だが、本当の力は藤圭子の歌唱力とあの写真に込められた自由の感触によるもので、それは石坂の想像力からは大きくはみ出すものだった。
新宿マニアの若者は、やがて藤圭子を新宿アートにふさわしい生々しい「自由の女神」にまで押し上げ、他方「紅の花」のキクチサヨコの生まれ変わりであることに気がつきはじめる。
藤圭子が、石坂が意図した夜の街を歌う歌手に収まり切らなくなるのはもはやすぐそばまで来ている。時代は、藤圭子をやさしく抱きすくめようとしていた。
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