「歌ってどういうことがすごいの」
ぼくの娘が、以前、人気ってなんなのかと聞いてきた。それと同じような質問だね。ぼくは、またすぐ答える。
「歌のすごさねぇ。そいつは、言葉に命を与えることだよ」
「普段、言葉には命がないの………」
「人は、時々、愛とか恋とか言うのさ。でもねその言葉にはほとんどのところあんまり命はなくて。顔の皮みたいなところで弾き返されてポトリと地面に落ちるのさ」
「………入っていけないのか」
「ご飯を食べようという言葉と、愛とか恋では、脳の中の置いてある位置が違うのさ」
「愛とか恋とかは、脳の中のいちばん深度のあるところにあって、月並みな言葉ではとても入れないのさ」
「いい音楽、いい曲というのは、門番をしているフィルターを突破して言葉をいきなり脳の奥まで運んでしまう、そういう力があるんだよ。いい音楽を聴いていきなり泣いたりするのは、そういう理由さ」
「脳の奥にいるというのは、こころっていうやつなんだね」
歌は、言葉から世間の汚れを取り払い、純な姿にし加速させ、あっという間にこころが収まっている深度までとどかせる。
うれしいことに藤圭子は、歌とこころの関係をぼくとほぼ同じような言葉で説明してくれている。
「好きな男の人にカラダをさわられると気持ちがいいように、ほら、こうやってつねれば痛いって感じる。
歌というのは、こころを、さっとさわるんだよね、あたしの胸の中にある」
ぼくは脳と言い、藤圭子は胸の中と言ってるが、ま、それは大した問題ではないだろう。歌とは「人のこころにさわるもの」なのだと言っている。
では、歌が人のこころにさわるためには、どんな方法があるのか。声なのか、音色なのか、メロなのか、リズムなのか、ちょっとした音の表情なのか。
方法は無数で、どんな方法でも良くて結果がすべてなのだ。
圭子が自分の歌の支えにしたのは(�△能颪い燭茲Δ法頬楜い箸い�唱法だった。本気で歌う。その中で人のこころをとらえる、いくつもの星のカケラは舞い散るだろう。
(きれいな声だねとか、きれいなメロだねとかね)
それはそれとして、本気で歌うという土台がなければなにもはじまらないし、「人のこころにさわれない」これが藤圭子の出した答えです。
大分、後になるが「面影平野」を歌う自分の迷いを訴える言葉の中で、圭子の本気のメカニズムをきっちり説明されている。
「歌のこころというのかな、歌が持っているこころみたいなものがわからないの、あたしには。あたしのこころが熱くなるようなものがないの。だから曲に乗せて歌っても、人のこころの中に入って行けるという自信を持って歌えないんだ。すごい表現力だなっていうことはわかるんだけど、理由もなくズキンとくるものがないの。結局、わからないんだよこの歌が、あたしには、ね」
「だから、人のこころに引っ掛かるという自信がないまま歌っていたわけ、それでヒットするわけないよね」
「そんなことはない、そんなことはないのさ」ここだけは、ぼくに説明させてくれないか。
この迷いとは、「面影平野」の持つ歌謡曲の限界を超えそうな文学性にあって。「歌のこころがわからない」という圭子の揺れはそのまま逆に「人は揺れている」という表現になっていて、この歌を見事な純文学としての領域に仕上げています。
だから、この歌は後世まで残るだろうし、ヒッキーは
「母ちゃんの面影平野、カッコいい」
と叫んだのです。
「母ちゃん、そこのところわかってよ。間違えないでよ」というヒッキーの必死の願いなんだと思います。
つまりね、圭子節と人は言うけれど。そいつは、その大部分は本気のエネルギーで、聴き終わるとこころの奥に圭子の魂の礫(つぶて)がとどいていて、それが聴き手にうずくような感触を抱かせるのです。
深度のある歌。いわゆる流行(はやり)歌とは、とどくところが少し違うのです。
もちろん類いまれな歌唱力が、こころへの推進力を十二分に支えている、与えていることは申すまでもありません。こころの深度があって、それを上手さが支えているのです。
この項を書く前に、本気という言葉の反対語を調べたら、嘘ん気となっていました。知っていましたか。
(エッ、まさか。嘘ん気って子供言葉だろう。大人が言うか)って思ったのだけど、他の辞書を見ても同じ。やはり本気の反対語は嘘ん気だった。どうしてそんなことを調べたのか。藤圭子の「本気」を書くために、準備がてら辞書引きしたのですね。そして次に、歌は聴けるものはすべて聞いてみた。
するとね、準備は無駄になった。藤圭子の歌はすべて本気でできていた。嘘ん気なんていう言葉は出てくる余地はまるでなかった。徒労だった。
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