◯2006年11月24日の日記再掲載
「さあ、どうやってこのカラダを食わせてていこうか」
馬場庄平が、ジャイアンツを自由契約になってまず頭をかすめたのは、生きていくための3倍飯をどうするかだった。
居候の3杯飯のまちがいではない、人の3倍は食う3倍飯だ。
馬場庄平が自分のカラダを維持するには、どうしても人の3倍は食わなければならないのだ。ところが、いま食のアテを失った。
故郷の三条(新潟県)に帰って、稼業の野菜の引き売りをしようと考えてもみた。けれど、それはむずかしいし、帰りたくない理由もあった。庄平は家族の誰にも似ていない。父も母も兄弟も全く普通の人で、庄平だけがジャイアントだった。つまり自分だけが異質だった。
退団のきっかけになった手術で、その理由はわかっていた。庄平は脳下垂体の手術をすることで、やっと無制限な成長を止めた。見え方の違う身内の中で、自分の異質に向き合う勇気はなかった。
そして、故郷の大きな期待と失望の前にさらされるには、あまりに隠しようもないカラダだった。
さあ、なにをはじめようか。とりあえずすぐに思いついたのが、前からよく面倒をみてくれる、合宿所がある駅のそばの酒屋の配達の手伝いだった。おばあちゃんが、馬場びいきだった。
「お食べよ、お食べよ、それだけのカラダをしているんだから」
と庄平が3倍飯を食べるのをニコニコ見ながら世話をやいてくれた。
けれど、それもおどろくような理由で無理なことを知らされることになる。
当時、配達に使われていたのは実用車と言われる自転車だった。太いタイヤと無骨な荷台の自転車だ。庄平は、いつもその自転車のウシロの荷台に尻を置き、そこから足を伸ばしペダルを踏んでいた。珍妙な乗り方だが、そうしないと長い足がつかえてペダルが回せないのだ。
「あ、馬場が自転車に乗っているよ。オモシロイかっこだよ」
その姿を見ると子どもたちは大喜びするのだが、庄平には悲しいことでしかなかった。
いつも自分が座っている荷台に荷物を乗せると、自転車はもう手で押すしかない。つまり自転車で軽やかな配達は無理なのだ。
「これじゃあ、とても普通の仕事はむりだ」
庄平は、そう思い普通の仕事ではない仕事を探した。
行き会ったのが、柔道だった。近くの警察の師範が
「そのカラダだ、柔道をやってみたら」
と声をかけてくれたのが転機になった。
これが、思わぬ道を開いた。
大きなカラダで見下ろすように、相手の襟を掴むと、ほとんどの相手は動けなくなってしまう。その上、特大の足裏が、すばらしい安定感を生むのだ。そして、特大の足裏は、もうひとつの役目を果たしてくれた。特大の足裏は、鉄床のような重さと硬さで相手の足を次々と刈り取るのだ。うれしくなって、馬場はぼくの家にやってきた。
「馬場ちゃん、お祝いに、焼き鳥を好きなだけ食べさせるから言ってみて」
母親は、馬場に聞いた。
「オバサン、100本くらい、食べたいな」
あっさり100本を平らげ、大きな手の平の中でまるでぐい飲みのように見えるグラスでビールを何杯も、何杯も飲んだ。
(ところで三ツ矢サイダーの一気飲み(それも2本続けて)は、ジャイアンツの歴史の中でも唯一、馬場だけで、それは多摩川のグラウンド小池商店の語り草になっている)
けれど柔道は、すぐに庄平の3倍飯を満足させるものではないことは、焼き鳥の食べ方ひとつを見てもすぐにわかる。寿司を100個食べたのも、この頃だ。その様子を見て、みんながすすめた。ウチの母親もすすめた。
「馬場ちゃん、レスリングをやってみたら」
「オバサン、とてもじゃないけどあれはこわいよ」
本当に子どものようにこわがって渋っていた。けれど、柔道での自信が後押ししたようだ。柔道師範が紹介状を書くと、やっと力道山に会いにいった。
「おう、きみが馬場君か。あしたからでも来ないか。
合宿所で、たっぷり食べて、カラダをつくることからはじめよう
じゃないか」
力道山はひと目見て気に入っていた。そして、この言葉、馬場の3倍飯の心理をズキンと納得させる言葉で、まぎれもない決め技だった。1も2もなくプロレス入りとなった。
そして時々、馬場は我家にやって来た。
「オバサン、マットって柔らかいと思うだろ。硬いんだよ。ドーンと落ちると、痛いんだ」
そう言って、大きなカラダに似合わぬ泣きそうな顔をする。ところがまわりはそのたびに、同情どころか大笑いをした。
「馬場ちゃん、辛抱、辛抱。背中の皮がいまにグンと厚くなって、そしたら痛くなくなるから」
さすがの、気丈なウチの母親も、こうとでもしか言い様がなかったのだ。(しかし、上手いことを言うなあ)
けれども3倍飯は充分満足させられているようで、野球時代と比べるとカラダはグングンと厚みを増してきていた。
力道山は、やがて馬場庄平をジャイアント馬場としてアメリカに送り出し、帰って来るともうスターになっていた。力道山が早速はじめたことは、自分と同じ伝説づくりだった。
そのためか、ジャイアント馬場はかつての苦労時代を知る、おばあちゃんのいる酒屋にも、ぼくの家にも来なくなった。(力道山は、失敗した巨人時代の話は一切させないようにしたとされている)
そして、3倍飯は
「1回の食事に、鶏を3羽、食べる」
と書き換えられていた。
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