月の光は音楽になるのか。なるさ。さあ、この音を聞いてくれ。
「死刑台のエレベーター」の画が動き、音楽が流れ出すと、少し月の光が輝きだした気がするのだ。
「トランペットって、こんなになめらかだったのか」。いや、これは本当に音なのか。それは、音ではなく柔らかな月光ではないか。ほら、この手のひらに音は映っている。
マイルスの音は、もはや音ではなく光、とうにこの世離れをしているのだ。
なぜ、ぼくがその答えを出したのか。それはこのフィルムがモノクロで、その映像が不思議なほどのなめらかさで構成されている。そのせいもあると思う。
「死刑台のエレベーター」、ルイ・マル25歳の作品、そしてマイルスの音楽だ。
もう何も書く事はない、正直なところね。この映画について書かれたものを集めれば、六本木ヒルズ1棟になるかもしれないだろう。なんでいまさら言葉がいる。
さすがにぼくも嫌気をさすし、恥ずかしい気持ちさえあるのだが、ひとつようやく思いついた。マイルスの音は、なめらかな月の光。そうしてね、どこかに誘って行くんだよ。
「どこへ、どんなとこへ」
さあ、このなめらかな音について行くと、どこに行くのだろう。それはなめらかな死のあるところ。
これにはアンリ・ドカエの手持ちカメラは、大きな役目を背負っている。カメラは、ほどよく先まわりし、迷った主人公をなめらかに道案内してくれる。
「ほら、あなたの闇はこちらの方さ」とね。なんの段差もなく、なめらかにゆっくりと歩くようにカメラは動き、マイルスの音と歩調を合わせ一体になる。
さあ、もはや、この夜も名残り、世も名残り、とさまよいはじめた音の魂はこの夜の底にどうなると言うんだ。
マイルスの音楽が指し示す二人の行き着く先はストーリーの一番はじめに書いてあった、そこは「死刑台」という場所らしい。なめらかな死は、こうして死の予感の足元にたどり着く。ほらマイルスの音楽は、映画の行先を、そして人の行末さえもすべてを承知しているのさ。
(アンリ・ドカエの手持ちカメラは、「太陽がいっぱい」で映画史に残る成功を収めるのだが、はじまりはここからと言って良いのだろう。すべてが素敵に回り出した映画ということになる)。
しかしジャンヌ・モローの街をさすらうシーンには胸を打たれる。
あれだけの、あの本気さで探してもらえるのか。ほとんどの男の想像力はちっぽけで、あの本気を素通りし、人生を無駄にするのだろう。フランス映画は、そういう悲しみを拾い上げてできている。いまさらながら、そう思う。
注:主人公は死刑台には乗りません。死の予感にたどり着くというイメージです。
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