「よせやい」
本の1ページを足早に通り過ぎようとしたら、オイラの背中に本の中から声をかけるじゃないか。照れ臭そうな声で。「よせやい」という言葉が「よせやい」と。
あー、なんて小気味のいい言葉なんだ。通り過ぎたページの中ほどに、じっと目を止めて、指でシルシを付けたくなったのさ。
実のところ10年も、20年も、こいつは聴かなかった言葉だけど、耳にするととうていそんな長い間、他人だったとは思えないよ。
だって、友達すぎるほど友達の感触だ。
昨日の別れ際、「ほら明日もな」と声をかけられた、そんな気がする言葉なんだよ。チャンドラーならこう言うよ
「君の声を聞いたら、すぐにわかったよ、テリー。君がすっかり顔を変えて現れても、君のやさしい声はいつだって友達さ」
胸にかすかにツーンとくるけど、これはなんだろうな。わからないなあ。けれど、口の中で繰り返す。
懐かしさか、やさしさか。
ちょうど照れて、頭をかいているような。
帽子が風で飛びそうな、そいつを右手で押さえたような。
一人の男が立っているじゃないか。
あーそうだ、町中の中原中也なんだ。
音がこころを連れて来る。ゆあーん、ゆよーん、と聴こえたような、あの時、あの遠い空に揺れている、あのブランコのそばに連れて行く。そういう魔法の響きを持つ言葉なんだ。
「よせやい」
あー、かつてこんなやさしい言葉が町を行ったり来たり、してたんだ。友達を忘れちゃいけないよ。そいつは、あまりに不義理で大人のすることじゃないからさ。
ぼくは「よせやい」をひそかにポケット入れといて、文のあちこちに登場させてみた。そしたらね、町が「三丁目の夕陽」になっちゃって、少しセピアに染まちゃって、ちょうどいい空、ちょうどいい色になっていた。
友達はちょっと生き生きした顔をして、ぼくの方を見てニッコリしていたよ。
ぼくは、少しはいいことをしたのかい。ちょっとした宝探しを仕掛けただけさ。そしたら、またいつものように答えたよ。
「よせやい」ってね。
ログインしてコメントを確認・投稿する