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2007年07月20日01:06

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翻訳の難しさ(メルヴィルとアレント・1)

「メルヴィルはある絶対者が革命の人びとのいう人権に含まれているといっているが、このような絶対者が政治的領域に取り入れられるとき、すべての人は死刑を宣告される。 」
志水速雄訳『革命について』(ちくま学芸文庫・1995年)
126ページ、2〜4行目

The absolute−and to Melville an absolute was incorporated
in the Right of Man−spells doom to everyone when it is
introduced into the political realm.
“On revolution” by Hannah Arendt 1963.(同じ部分の原文)

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「メルヴィルとアレント」については、いずれ記すことがあるだろうから(と書いておいて果たした約束は少ないけれど・笑)、ここでは翻訳の問題について少しだけ。

僕よりも若い人たちが主宰している読書会に参加させてもらって、ハンナ・アレントの『革命について』を読んでいる。「革命」というと僕たちの世代(昭和30年代生まれ)は、ロシア革命に起源を持つ社会主義革命のことを真っ先に思い浮かべてしまう。しかし、この本で直接に考察の対象とされているのは、「フランス革命」と「アメリカ革命」である。アメリカで「革命」なんてあったっけ?と思う人もいるかも知れないが、日本で普通「アメリカ独立戦争」と呼ばれている1776年前後の事件のことを、英米圏では「American revolution」とも呼んでいる。

この本の中でアレントは、フランス革命の帰結について否定的に論じている(と言われている)。特に、ロベスピエールに始まる革命的独裁、それに続く恐怖政治に対しては、強い嫌悪の念を抱いているようだ。「自由・平等・博愛」のスローガンをかかげたフランス革命は、結局のところ「自由」の否定をもたらしたのではないか。その原因は、どこにあったのか。そのような視点で、アレントはフランス革命のプロセスを当事者たちの思考様式のレベルにまで掘り下げながら振り返る。

『ビリー・バッド』の「序文」とされているメルヴィルの遺稿を読むと、メルヴィルもフランス革命の影響について批判的な意見を持っていたようだ。そのようなこともあって、アレントは『ビリー・バッド』を援用しながら、ロベスピエールをはじめとした「革命の人びと」が掲げた麗しき「理念」の影に隠された「危険な性格」をあらわにしようとする。
冒頭に引用したのは、そうした文脈の中の一文だ。

僕は『ビリー・バッド』を読んだことがあるけれど、正直に言えば、この物語の中に「フランス革命」に対するメルヴィルの批判的態度など、読み取ることが出来なかった。確かに、「序文」(とされている文章)の中に、フランス革命に関する言及がある。しかし、これについて僕は、人の関心を惹くための味付け程度にしか思っていなかった。だから、当初、アレントの「援用」には若干の強引さを感じた。

しかし、アレントの論考を僕なりに検討し、更に『ビリー・バッド』を読み返してみると、彼女の主張には、相当程度の妥当性があるように思われてきた。と言うよりも、僕は『ビリー・バッド』を一応は読んだものの、メルヴィルの真意を全く理解していなかったようだ。目からウロコとは、このことかも知れない。『ビリー・バッド』は、皮肉な結末を迎えたひとつの事件を描いただけの小説ではなかった。それは、フランス革命以降の政治・社会に対するメルヴィルのひとつの洞察であり、革命と戦争の20世紀に向けた彼なりの黙示録であったのかも知れない。

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しまった、サラリと引用文の前後の文脈だけを紹介するつもりだったのに、いつの間にか力が入ってしまった(笑)。

さて、引用した志水速雄氏の訳の中の
「メルヴィルはある絶対者が革命の人びとのいう人権に含まれているといっている」
という部分を読んだとき「ハテ?」と思った。僕が知る限り、『ビリー・バッド』の中に、このような言及はなかったからだ。そこでアレントの原文にあたってみたら、「メルヴィルが言った」などとは書かれていない。
どうしたわけか。

どうやら、原文の中の「the Right of Man」という部分を志水氏は取り違えたようだ。これば、船の名前で、主人公ビリー・バッドが英国軍艦に強制徴兵される前に乗っていた民間の商船「人権」号のことだ。つまり

「to Melville an absolute was incorporated in the Right of Man」

という部分は、「メルヴィル(の小説)においては、絶対者(である主人公ビリー)が、人権号に乗り組んでいたのだが」というような意味になる。しかし、それに思い至らなかった志水氏は、大文字の「the Right of Man」を何らかの意味での強調という程度に解したのだろう。そして、彼なりの文脈解釈から、「革命の人びとのいう」という言葉を「人権」の前に(勝手に)補ってしまった。邦訳の読者にしてみると、これは実に厄介な誤りだ。
前提条件が誤っているから、後段の「このような絶対者が政治的領域に取り入れられるとき、すべての人は死刑を宣告される」という部分の「このような」という言葉が「どのような」ことを指すのか分からなくなってしまう。
こうして志水氏は、読者を迷宮に誘いこむ・・・・・・。

ここはまず、メルヴィルへの言及を外して、

The absolute spells doom to everyone
when it is introduced into the political realm.

という部分だけを読むべきだ。そうすると、
「絶対者(あるいは「絶対という観念」= the absolute)が政治的領域に導入されるとき、この絶対(者)は、すべての人々に最後の審判(あるいは死刑判決)を下す」
というアレントの主張が読めてくる。

この一文だけを読むと、とても過激なことを書いているように読めるが、彼女がユダヤ人であり、『全体主義の起源(起原)』の著者であることを思い起こせば、彼女の言わんとすることは分かるのではないかと思う。
そうした自分の主張の中に、アレントは『ビリー・バッド』のストーリーの一部をヒッカケる。「メルヴィルにおいては、絶対者(an absolute)が「人権」号に乗り組んでいたのだが」と。ここで言う「絶対者」とは、「善」の象徴である主人公ビリー・バッドのことである。

というわけで、引用部分の全体を豚なりに訳し修してみると、次のようになる。

「絶対者(the absolute)が政治的領域に導入されるとき、この絶対者は
−−メルヴィルにおいては、絶対者(an absolute)が「人権」号に乗り組んでいたのだが−−すべての人々に最後の審判を下す。」

メルヴィルの『ビリー・バッド』のストーリーに引っ掛けて、アレントが何を言わんとしたのか。そのことについては、後日、改めて考えてみたい。

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アレントのメルヴィルに関する言及は8ページ程度に及び、その比重は決して小さくない。文庫本で450ページにも及ぶ訳業を為された故志水速雄氏には敬意を表したいが、このような誤訳が放置されていることは、とても残念なことだ。翻訳は便利なものであるが、やはり肝心なところでは、原書にあたらなければならないということか。

以上のようなことは、実は読書会の中で何人かの方と議論する中で判明したことだ。もし、僕が一人で読んでいたら、多少の違和を感じたとしても、気に留めず読み飛ばしていただろう。しかし、このように深読みすることによって、アレントは元より、メルヴィルについても色々と気づかされることが多かった。「読書会」という場で精読することの意義をあらためて感じている。

<日記:ビリー・バッド>
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