デカルトの「神」の概念について、以下のようなコメントを見かけた。
「定義から得られるものは神は実体であり、存在そのものであるということでしょうか?」
「スピノザ著『エチカ』を読む」トピック[2]
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6249752&page=1&id=88002311
このコメントについて考えてみたい。
我々は(つまり普通の近代的な思考のOSを搭載した頭では)、「存在」を「実体」だという考えは、なじみのあるものだ。だから、「神は実体である」と言われると、神は「存在そのもの」であるというふうにも解釈したくなる。しかし、僕のスピノザ理解では、それだけでは、説明として不十分であるように思われる。
スピノザの神を理解するときには、「存在」と「実体」は分けて考えた方がよいと思われる。
たとえば、物質と物質の関係を支配する「法則」のようなものは、「存在」と呼び得るだろうか。
我々が感覚的に知覚し得るモノを「存在」と呼ぶとしよう。そうすると、たとえば「万有引力の法則」のような概念としてしか理解できないものは、存在の「外側」にあることになる。
しかし、スピノザの使う「実在」という言葉には、「法則」のようなものも含まれているように思われる。つまり、「実体」という言葉に、「存在」よりも深い意味(あるいは「階層」)を込めているように思われる。
スピノザの神は「すなわち自然である」と言われることがある。しかし、「自然」「宇宙」「世界」という言葉にも、色々な意味(階層)があるように思われる。「宇宙」という言葉でも、英語の「スペース」と「ユニバース」では、ニュアンスが異なる。
今、こうした「階層」を以下のように大雑把に考えてみたい。
A.一般的に「存在」(あるいは「有」)と呼ばれるもの。物質的なもの、質量を有するモノの全体=総体(万有)。狭い意味での「存在」。
B.一般的に「真空」として理解されている、物質によって満たされていない(質量を持たない)空間も含めた宇宙。英語の「スペース」のニュアンス。
C.物質間の関係や空間を支配している「法則」という概念も含めた宇宙。英語の「ユニバース」のニュアンス。
D.「概念」のような物質的でも空間的でもないようなモノゴトを含めた「世界」。
E.「神の意志」や「存在の究極の目的」など、人智を超えたものも含めた全体。
AとBは、デカルトやスピノザの言葉を使えば「延長」の世界である。
少なくともスピノザの神は、属性として「延長」のほかに「思惟」を持つ(あるいは「含む」)から、彼の神(=自然=世界)は、AやBに留まるものではない。
スピノザは、Eのような意味での「意志」や「目的」を認めていないように思われる。スピノザの神は人格神ではないと言われるゆえんである。
そのように考えると、スピノザの神は、CかDのようなものであるように思われる。スピノザの言う「思惟」を広めの意味で解釈すれば、Dが、「スピノザの神=自然=世界」ということになるのではないかと思う。
ここまで考えてみたところで、『エチカ』の第1部の定理7の和訳と英訳を見ておきたい。
「定理七 実体の本性には存在することが属する。」
「VII. Existence belongs to the nature of substances.」
「存在すること」の英訳が「being」ではなく「existence」となっている。
そして、それが「the nature of substances」に属するとなっている。
以上、試論として。
◆スピノザに関する日記の目次(含:エチカnote)(2018年11月23日)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1969283915&owner_id=2312860
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