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2016年12月01日00:49

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歴史之雑談帖(その185)―後期難波宮の役所跡発見か

此処の所、歴史之雑談帖と称して発掘のニュースばかり取り上げて居りますが。わたくしの性分としまして、文献では解っていたものの、その実在の証明
に乏しい(或いは欠落している)ものの発見があったり、或いは全く知られていないものが出てきたり、と云うのは大いに興味を惹き付けられる所でありまして。

さて、大阪に嘗ては難波宮が存在していた事は、今日では常識でありますが、嘗てはそんな物は存在していなかった、と云う見解が主流でありまして。色々な紆余曲折を経て、実在が明らかになって来た訳ですが、この程その難波宮の役所跡と思しき遺跡が見付かったそうです。

<引用開始>

後期難波宮で役所の建物群跡か 後期では初めて

聖武天皇が奈良時代に造営した後期難波宮(大阪市中央区)で、役人が文書処理などの実務をした役所「官衙」とみられる建物群の跡が見つかり、市教育委員会が30日、発表した。官衙跡は、飛鳥時代に完成した前期難波宮では発見されていたが、後期で確認されたのは初めて。調査を担当した大阪市博物館協会大阪文化財研究所の高橋工調査課長は「塀に囲まれたコンパクトな配置、簡素な構造などから官衙とみて間違いない」としている。

発掘現場は、天皇が重要儀式や執務をした大極殿など主要建物群の西側。塀とみられる柱穴で仕切られた区域に、4棟の掘っ立て柱式建物跡が見つかり、うち二つは官衙によく見られる細長い建物だった。官衙跡のすぐ北側には東西に一直線に並ぶ11個の柱穴を発見。天皇が出入りするような格式の高い門を構えた「五間門区画」の一部とみられ、南北約200メートル、東西120メートル以上の大規模施設があったことも判明した。

高橋課長は大規模施設について「立地や格式から宴会施設だったとする説もある」と指摘。区画内に東西約12メートル、南北約6メートルの遺構も見つかった。小規模な門を建てる際の地盤改良の痕跡か、貯水施設の可能性もあるという。難波宮は、7世紀中ごろの孝徳天皇の時代から整備された「前期」と、聖武天皇が726年に造営した「後期」に分かれる。現地説明会は12月3日午後1時〜3時。

<引用終了>

出典Web:http://www.sankei.com/west/news/161130/wst1611300069-n1.html

財政事情が許せば、説明会に行きたい所でありますが、そうもいかず。それにしても京都・奈良・大阪は色々な遺跡がまだまだ眠っているのでしょうね。今後もどんなものが見付かるのか、大いに興味の湧く所です。
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