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2015年11月19日23:35

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歴史之雑談帖(その157)―鎌倉時代の東大寺五重塔の規模

東大寺は創建以後、源平の争乱に巻き込まれて主だった建物は焼失し、鎌倉時代に再建されている、と云うのは何方でも御存知の御話。只その後悪名高き松永久秀によって、またまた消失の憂き目にあい、当時の面影を偲ばせるのは南大門だったか、と記憶して居ります。
この鎌倉時代には、大仏殿の他に塔も再建されたそうですが、こちらは後世落雷によって炎上・消失したそうでして。
その鎌倉時代の東塔の基壇が発掘されたそうですが、これが驚くべし創建当時よりも規模を拡大しての再建であった様で。

<引用開始>

「塔はさらに高く、大きく」創建時より一回り拡張…奈良・東大寺で鎌倉時代の東塔基壇跡出土

世界遺産・東大寺(奈良市)の東塔跡から鎌倉時代に再建された塔の基壇が出土し19日、同寺と奈良文化財研究所、奈良県立橿原考古学研究所が発表した。奈良時代の創建時よりひと回り大きく拡張されており、「創建時を踏襲して再建する奈良の大寺院では極めて異例」という。東塔跡の北と東部分で発掘調査を行った結果、一辺約27メートル、高さ1・7メートル以上とみられる基壇が出土。瓦などから鎌倉時代のものと分かった。創建時の基壇上や周囲に盛土をし、約3メートル拡大しているとみられる。

柱の配置は3間四方で、中央柱間は約6メートル、両脇は約5・4メートルとも判明。鎌倉時代に大勧進職(だいかんじんしき)として同寺を復興した僧、重源(ちょうげん)が採用した様式「大仏様(だいぶつよう)」を取り入れた南大門の柱間寸法とも一致した。階段跡や周辺の石敷き遺構なども確認された。東大寺の東西両塔は奈良時代、大仏殿の東南と南西に創建され、東塔の高さは70〜100メートルともされるが、平家による治承4(1180)年の南都焼き打ちで焼失。その後再建されたが落雷で焼け落ち、基壇跡だけが残っていた。現地説明会は21日午前10時から行われる。

研究者からは「想定外だ」と驚きの声が上がった。「天平回帰」と、創建時の姿で再興するのが常識だった奈良で行われていた大規模な工事の様子をほうふつとさせる塔の姿からは、大勧進職(だいかんじんしき)として復興の指揮をとった僧、重源(ちょうげん)らの東塔再建への悲願がうかがえるという。東大寺は治承4(1180)年、平重衡(たいらのしげひら)の南都焼き打ちで伽藍(がらん)の大半を焼失。その後、復興に乗り出したのが中国・宋に渡った経験のある重源だった。すでに61歳と高齢だったが、勧進(寄付を募ること)に精力的に奔走。大仏、大仏殿、南大門などの復興を果たし元久元(1204)年、最後に着手したのが東塔だった。

今回の調査で見つかった基壇は、創建時よりも約3メートル拡大。柱の配置は3間四方で、柱間寸法は再建された南大門と一致する。調査団長の鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(建築史)は「奈良の寺は興福寺などのように『天平回帰』で同じ規模、構造で再建するのが常識だが、ここではひっくり返っており、奈良では珍しい。思い切って宋の様式を取り入れたのではないか」と指摘した。重源は勧進状に、「東塔が完成したら千人の童(男子)を集め、千部の法華経を転読させたい」といった願いも記している。西山厚・帝塚山大学教授(仏教史)は「重源の最後の願いは、大仏と東塔の前でたくさんの子供たちにお経を読んでもらうことだった。重源にとって、東塔がいかに重要なものだったかがよく分かる」とする。

しかし、重源は間もなく逝去。東塔再建は栄西、行勇(ぎょうゆう)という大勧進職に引き継がれて嘉禄3(1227)年に完成したとみられるが、康安2(1362)年に落雷で再び焼けた。長い時間を経て再び現れた巨大な塔の遺構に、菱田哲郎・京都府立大学教授(歴史考古学)は「残りがよく、今後の調査が期待される。鎌倉時代の復興の力強さが感じられる」と話した。

<引用終了>

出典Web:http://www.sankei.com/west/news/151119/wst1511190066-n1.html

記憶が正しければ、確か東大寺は塔の再建を目指すと発表していた筈、と思って検索を掛けてみると、某ウィキペディアにそうした記述が。今回の発掘もその一環なのかな、と思いますが、さて本式に再建する時は、創建当時の大きさで作り直すのか、それとも鎌倉時代の塔を再建するのか。どちらにするのか、中々興味深い所ではあります。
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