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2015年06月20日08:30

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與謝野訳-柏木における引き歌(2)

「前の庭の桜の美しいのをながめて、「深草の野べの桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」と口へ出てくる大将であったが、尼姿を言うようなことはここで言うべきでないと遠慮がされて、「春ごとに花の盛りはありなめど逢あひ見んことは命なりける」と歌って、
時しあれば変はらぬ色に匂にほひけり片枝かたえ折れたる宿の桜も
 と自然なふうに口ずさんで、花の下に立ちどまっていると、御息所はすぐに、
この春は柳の芽にぞ玉は貫ぬく咲き散る花の行くへ知らねば
 という返しを書いてきた。」

與謝野晶子訳『源氏物語』「柏木」より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000052/files/5051_14567.html

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引き歌というのは、面白い表現手法だ。
言いたいことは全ては言わず、相手の教養(知識)をたのみとして、わざと表現を省略するわけだ。
しかし、平安王朝の人々と「教養」を共有しない我々にとっては、これは理解のうえでのハードルのひとつともなる。

とすると、現代語訳などで、この「引き歌」をどのように扱うのかが問題となる。

僕が読んでいる玉上訳(角川文庫)では、引き歌のニュアンスは、訳文にはあまり取り込まれてはいない。しかし、この文庫版では原文が併載されており、その原文の方に脚注で「引き歌」があることを示している。読者にしてみれば、原文と訳文を併せ読む限り、引き歌の技法を充分に味わうことができる。

では、他の訳はどうか。
ためしに、著明な與謝野晶子訳を見てみた。
冒頭に引用したのは、昨日、原文を引用した、夕霧と御息所の対面の場面である。

なんと、「引き歌」の元となった歌を、全文、括弧(「 」)で括って引用していた。
なかなか面白いアイディアだ。
元歌を引いてしまえば、少なくとも「省略」された表現を補う(あるいは復元する)ことができる。
元歌の解釈や現代語訳は、ここには示されていない。しかしそれは、引き歌に限らず、すべての和歌を訳していない與謝野訳にとっては、特別なことではない。與謝野は、和歌を訳すようなことは無粋と考えていたのだろう。

ただ、問題も無いわけではない。
一部のみを述べて、思うことのすべてを敢えてあらわにしないというのが、引き歌の面白さでもあるだろう。與謝野訳の方法では、引き歌が持つそのような「風情」が、感じられなくなってしまう。また、引き歌が、元の歌の「すべて」の意味を引用することを意図していたとは限らない。なので元の歌の「すべて」を書いてしまうのは、表現としては「過剰」であることもあるかも知れない。

與謝野訳は分かりやすくて面白い訳だが、読む上で注意を要する現代語訳だとも思っている。この引き歌の扱い方も(決して悪いわけではないが)、注意を要する点のひとつと言えるかも知れない。

■與謝野晶子訳についての日記
(1)情けなくこはごはしうは見えじ-朧月夜
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(2)あやまち
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(3)匂宮-源氏物語における恋愛結婚?(2014年02月15日)
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(4)匂宮-人の許し(2014年02月17日)
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