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2021年01月30日22:00

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歴史之雑談帖(その260)―奈良・平安期の東海道の遺構見つかる

東海道、と聞くとわたくしが真っ先に連想するのは歌川広重(安藤広重)の浮世絵『東海道五十三次』、そして鉄道の東海道本線・東海道新幹線であります。抑々の名称は、律令時代の五畿七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)からのものだ、そうでして。その律令時代に整備されたと思われる、東海道の遺構が見つかったそうです。

<引用開始>

奈良・平安期の「東海道」跡を発見、道幅16m…元々は日本書紀に登場する「倉歴道」?

滋賀県栗東市の縄文時代〜近代の複合遺跡・高野遺跡で、古代の官道「東海道」の跡が見つかり、県文化財保護協会が28日、発表した。出土した土器などから奈良時代後期〜平安時代前期に存在し、道幅は約16メートルだったと判明。同協会は「不明な点が多い古代の官道のルートの一部を特定できたのは貴重な成果だ」としている。

古代東海道は、飛鳥時代には現在の奈良県から三重県伊賀地方を抜け、東国へ延びていたとされる。長岡京遷都(784年)以降は道筋が変わり、滋賀を通過するようになったという。今回の調査地は、土地区画の形状から東海道のルートと推定され、同協会が2018年度から発掘。19年度に道路脇にあったとみられる溝跡1本が出土していた。

20年度の調査では、東西約100メートルの範囲で、東西平行に延びる計3本の溝跡(幅約1メートル、深さ20〜50センチ)が出土。うち2本は約16メートル離れて対となっていたため道路遺構と判断した。古代東海道の跡は、曲金北遺跡(静岡市)など各地で確認されている。滋賀県内では栗東市の上鈎、下鈎東両遺跡で側溝とみられる痕跡が見つかっているが、道路両端の側溝跡がそろって出土し、道路跡と明確に確認されたのは初めてだ。

調査地では、古墳時代の竪穴建物跡なども出土したが、いずれも飛鳥時代前半に埋没し、その後に道が造られた痕跡があった。このことから、中村太一・北海道教育大教授(日本古代史)は、「元々は日本書紀に登場する『倉歴道くらふみち』として飛鳥時代後半に整備された道で、奈良時代後期〜平安時代前期に東海道として使われ続けたのでは」と推測する。

高野遺跡周辺は河川に挟まれており、水害が頻発したとみられる。江戸時代に整備された近世東海道は同遺跡の約120メートル南に位置しており、同協会は「水害の影響で、近世東海道の位置にルートが変更されたことも考えられる」としている。新型コロナウイルスの影響で現地説明会は行わない。問い合わせは同協会(077・548・9780)。

<引用終了>

出典web:https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210129-OYT1T50119/

今回発見された以降を、『更科日記』の作者菅原孝標女や、『十六夜日記』の阿仏尼、或いは西行法師も歩いたのでありましょうか。或いは源平の争乱時代、木曽義仲や源義経の軍勢も、この道を行軍したのでありましょうか。大袈裟に言えば、歴史のロマン、でありますねえ。


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