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2020年12月26日23:31

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ドイツ軍参謀の観点からの第二次世界大戦論(12)--------時代遅れの要塞

”世界帝国の消失”-----ドイツ軍参謀の観点からの第二次世界大戦論

第3章 作戦コード:イエロー     //フランス戦//

3.2 マジノ線----時代遅れの要塞

(訳者序)
日本人には,日露戦争での旅順要塞への白兵突撃は,愚行中の愚行と思われている。この愚行は,日本軍だけはなく,10年後の第1次世界大戦も,同じような白兵突撃を行い,ベルダンなどにより,惨憺たる犠牲者を出している。マジノ線は,旅順のような白兵突撃に対応するものであった。空飛ぶ砲兵と言われる爆撃機と,戦車などの自走装甲車両(移動性が高く戦力の集中が容易)には対応していなかったことに注意してほしい。

<日本語訳>
世界は,度肝を抜かれた。数か月にわたり,新聞や雑誌は,来るべき会戦の仮想的戦線を示したヨーロッパの地図を印刷していた。仏軍の参謀総長,Generalissimo Maurice Gomelin,世界で最も有名な職業軍人と西側のジャーナリストは呼んでいたが,我々を打ち負かすマスタープランを準備していた。

近代戦においては,この噂されたGomelin計画に従い,工業化時代の火力は,守備側は攻勢側に対し,10倍〜15倍有利である[注1]。フランスは,第1次世界大戦において1500万もの兵士が戦死した。このことは,ナポレオン流の大人数の歩兵攻撃は,もはや機関銃と大砲には無力であることを証明している[注2]。ベルダン(の悲劇)は,2度とあってはならない。新しい考え方は,平時に,最強の近代火器を備えた要塞を結びつけた長城を建設することであった。将来の敵数百万が長城に押し寄せても,敵方は,自分たちの血の海におぼれることだろう。

この理論に基づいて,フランスは,トンネルによって統合された要塞の連鎖であるマジノ線を建設した。もし,我らドイツ軍が攻撃しなくても,マジノ線による地上の壁とイギリス海軍による海上封鎖により,経済がしめあげられるだろう。もし,革命によってヒトラが先に失脚しなくとも,最終的に,連合軍は,マジノ線から打って出て,止めの一撃を与え,1918年と同様に,我らが将軍が講和条件へ匍匐前進できるだろう。座り込み戦争の期間中に,西側では,このような新聞談義が行われた。

これを知らされた軍人たちは,このマジノ線にいくつかの疑問を持った。それは,実際に,技術の驚異であるが,それは,あまりにも短かすぎないか?スイスアルプスから始まり,独仏国境にそって200マイル以上も続き,Longuyaと呼ばれる地点に達している。しかし,そこで終わっている。Longuyaと英仏海峡の間には,低地国による穴,すなわち,フランスとベルギーとの国境が残っており,少なくとも,マジノ線と同じくらいの長さがある。1914年,獰猛なドイツ軍は,ベルギルートから攻撃した。これは,まさに,この穴がパリへの平坦で恰好な道となるからである。我々は有名なマジノ線を迂回し,そのルートを再び南下できないか?

Gomelin計画の賛成者は,そのような問いに対しては,皮肉な微笑によって答えた。彼らは,確かに,ベルギーから海へ直線で延ばせれば非常にいいに違いない。しかし,それは,ベルギ次第で,逆に,かの国は中立を保つことを主張していた。フランスでマジノ線を完結するためには,130マイルもの重要な工業地域を横切らなけれければならない。さらに,その建設がなされようとするときに,緊縮財政のムードが政府に広がった。人々は,労働時間の短縮と賃金上げを求めた。費用は,天文学的になった。同様に,この地域では,地下水のためトンネルの開削が困難であった。さらに,そのときには,ヒトラが権力の座についており,マジノ線の延長は,好戦的な総統をして,早まった行動を刺激する恐れがあった。

手短に言えば,フランスの最も賢い軍人たちは,マジノ線を完結しない選択を行った。それに代えて,Gomelin計画があった。もし戦争になったら,フランス軍とイギリス軍は,要塞化されていないベルギー国境に沿って配置する,かりに,ドイツ軍が再び突破を企てたら,Gomelin将軍配下の連合軍は前方展開し,20万のタフなベルギ軍と強力な水際の防衛線(日本語訳注:ディール川防衛線を指す)で合流する。近代戦闘においては,防衛側が極端に優利なので,そのような狭い戦線に対するドイツ軍の攻撃は,血みどろの破綻となるであろう。

[訳者によるコメント]-----個人的見解

[注1]
守備が攻勢よりも有利な戦闘形式であることは,野戦における攻勢3倍の原則として,古くから知られている。近代戦に限った話ではない。戦略論の祖である孫子ですら,城を攻めるのは下策中下策と記述している。近代戦略の祖とされているクラウゼヴィッツも,守備が攻勢よりも有利な戦闘形式であると記述している。

これを数学的に体系化したのがランチャターの法則である。産業革命以前は,ランチャターの1次法則であったが,それ以降は,より戦力の集中の効果が大きいランチャターの2次法則が成り立つとされている。”守備側は攻勢側に対し,10倍〜15倍有利である”というのは,守備側の戦闘能力と攻撃側の戦闘能力の比率を表す”交換比”のことを意味する。ところが,実際にこの交換比は,10倍〜15倍にはならず,米海兵隊を苦戦させた硫黄島の戦い(今でも海兵隊の新兵教育に硫黄島の戦いの講義があるそうである)ですら,この交換比は5倍程度とされている。

攻撃側は自己の意志で攻撃点を選択できるので決定的な点に戦力を集中することが容易である。逆に,防御側は,有利な戦闘形式であるが,攻撃側は防御の手薄なところを狙ってくるので,決定的な点に戦力を集中することが困難である。この戦力を集中することが困難であるということが,防御戦闘を困難にする大きな理由である。

[注2]
孫子の時代から,城を攻めるのは下策中の下策とされているが,補給の確保が重要となる近代戦においては,やむを得ない場合,敢えて要塞を攻撃する場合がある。その典型は,米国では,南北戦争で南軍が守るワグナー要塞への攻撃(伝説となっている第54マサチューセッツ歩兵連隊の突撃,連隊長以下ほぼ全員玉砕,かろうじて連隊旗を確保)。日本では,日露戦争における旅順要塞への攻撃である。いずれの場合も,惨憺たる戦死者を出してしまった。これらは,補給のための港湾を確保するために,やむを得ない攻撃であった。日本の場合,旅順を放置していたら,旅順艦隊により日本の輸送船団が阻止され,満州の日本軍が兵糧攻めにあうからである。日米では,ナポレオン流の大人数の歩兵攻撃は,もはや機関銃と重砲隊には無力であることは,すでに,痛いほど身につまされていた。欧州では,これらの戦訓を十分に研究していなかったようである。日本軍も,ワグナー要塞への突撃を十分に研究していなかったので大きいことはいえないが。

なお,日露戦争までは,要塞で守るべきものは軍港とその回りを見渡せる山岳であったが,第2次世界大戦では,これが飛行場を建設可能な島となった。さらに,なぜ,マジノラインが全く機能しなかったことについて記述すると,長くなりすぎるので,別の機会としたい。
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