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2017年04月10日23:11

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石田衣良「イルカの恋」

以下は『最後の恋 MEN'S つまり、自分史上最高の恋。』(新潮文庫)というアンソロジーに収められている石田衣良の「イルカの恋」についての(いわゆる)「ネタバレ」を含んでいます。ご留意ください。

Nさんへ

Nさんが読んだという『最後の恋 MEN'S』の中の「イルカの恋」を読みました。この一文を書く前に、さらに3回読みました。繰り返し読んでも、その印象は深まりこそすれ、薄れることはありませんでした。

この短編には、作者から読者に対して、ひとつの問いかけがされていると感じました。その問いかけとは、要約すると次のようなものです。

「平凡なもの、凡庸なものは、型にはまってしまっている。
しかし、至高のものは不定形である。
あなたは、その『ほんとうのもの』の形の定まらないことに耐えられるだろうか。」

この物語では、「もの」とは「恋」のことでした。
そして、作中の作家に「ほんものの恋」について、次のように語らせています。

「ほんものの恋なんて、かわいいものでも、素敵なものでもない。写真に撮って、きれいでしょうと雑誌にのせるようなものでもない。獰猛で、危険で、不意打ちで、できることなら生涯近づかないほうがいいようなものだ」(p.192)

どうして「千尋」は、死ななければならなかったのか。
どうして「あゆみ」は、「裕介」(の行為)を受け入れたのか。

そこには、「ほんとう」のものだけが持つ「獰猛さ」があったのだと思います。

ネット上の感想(レビュー)などを見ると、
「最後の性的な描写は無くてもよかった」
というようなものがあります。
でも、「ほんとうの恋」の獰猛さを示すには、あれは不可欠のものだったと僕は思います。

また、
「なんとなく消化不良な感じだった」
という感想もありました。でも、問題を提起しながら、安易な「型」(答)を読者に与えなかったことは、作者の意図そのものではないかと僕は思っています。

最後の描写に「嫌悪感」を抱く読者もいるかも知れません。
だとすれば、その人は「ほんとう」のものが持つ「獰猛さ」や「危険」に耐えられない人なのだと思います。

ラストの「あゆみ」の行為に、「主体性」が感じられないという人もいるでしょう。
でも、ひょっとすると、「主体性」を重視するという考え方そのものが、ひとつの「型」に過ぎないのかも知れません。

「千尋」は、「異様さ」を内に抱える自分を「イルカ」にたとえました。
その「異様」を生きることが、彼女にとっては「自由」だったのか。
それとも
「心の暗い半分が求めることにさからえる人間はいないのだ」(p.190)
という言葉が示すように、自分でもコントロールできない何かに束縛された結果であったのか。
この「自由」か「束縛」かという問題も、なかなか難しいですね。

少し話が変わりますが、世間の「型」とは違う自分の中にある「異様さ」を自覚し、そのことで悩み苦しむ兄妹を主人公とした平安時代の古典に「とりかえばや物語」というものがあります。
この古典を「さいとうちほ」さんがマンガ化して、「とりかえばや」として「月刊フラワーズ」(小学館)に連載しています。単行本も11冊ほど出ています。Sさんは、この「とりかえばや」が大好きだそうです。気が向いたら、読んでみてください。

石田衣良さんの文章を読むのは、これが二つ目でした。
最初に読んだのは、円地文子の『源氏物語(二)』(新潮文庫)の巻末の「解説」でした。
源氏研究家でもない石田さんが解説を書かれていることは奇妙にも思いましたが、「中年男」の立場からの源氏物語論は、とても面白かったです。

今回、こうして石田さんの作品に触れることが出来て、本当によかったです。
石田さんが、歴史を超えて「人間」というものを見つめ続ける作家であることを発見することが出来ました。

そうした発見のきっかけを作ってくれて、ありがとう。

■中年男にとっての源氏物語(2015年08月26日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945477139&owner_id=2312860

http://ameblo.jp/murayama-denbay/entry-12264498505.html
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