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2016年12月05日22:53

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点鬼簿之雑談帖(その76)―荒川博氏の訃報

元読売ジャイアンツの打撃コーチとして、王貞治選手の一本足打法を編み出した事で有名な荒川博氏の訃報が伝わりました。享年86。また一人、時代を作った人がこの世を去り、寂寥感を感じずにはいられない所であります。嗚呼。

<引用開始>

王さん一本足打法生みの親・荒川博さん死去 OB会出席予定も帰らぬ人に

巨人の打撃コーチとして王貞治選手に「一本足打法」を指導、世界の本塁打王の礎を作り、その後、ヤクルト監督も務めた荒川博さんが4日、心不全のため、東京都内の病院で亡くなった。86歳だった。合気道の理論を打撃術に応用。「荒川道場」と呼ばれる厳しい指導で巨人の若手を鍛え上げ、連覇に貢献した。ヤクルトでは74年から76年途中まで指揮を執り、その後は野球解説や少年野球の指導、ゴルフのコーチなども務めていた。葬儀・告別式の日取りは未定。

「一本足打法」の生みの親が逝った。荒川さんは、数年前から体調を崩し、入退院を繰り返していた。関係者によると、この日は女子ゴルフの上田桃子を指導し、その後は巨人のOB会総会に出席する予定だったというが、帰らぬ人となった。早実から早大を経て、1953年に毎日(現ロッテ)に入団。選手での実働は9年間だったが、その名前を一気に高めたのが、巨人の打撃コーチに就任後、王に「一本足打法」を指導したことだ。

毎日時代、高校の後輩でもあった好打者・榎本喜八を指導したことを川上哲治監督が評価、現役引退を決めた61年オフに巨人に招聘(しょうへい)。プロ3年間、伸び悩んでいた王の指導を託した。王とは浅からぬ因縁があった。出会いは54年、王が中学2年のときだった。荒川さんは自宅近くの隅田公園で、王少年が出場していた少年野球の試合をたまたま観戦。当時右打ちだった王少年に左打ち転向を勧めると、すぐに実践して二塁打を打った―という。再会した王は、手足の動きがバラバラだった。荒川さんは「王は打つ時に手が動く欠点があり、バランスも悪い。片足で立てば動けないのでは」との発想と、球を線で捉える必要性から一本足打法に着手。王は62年7月1日の大洋(現DeNA)戦(川崎)で試みたところ2本塁打を放ち、そこから世界の本塁打王への道を歩むことになった。

自身は合気道6段の腕前。その極意は打撃にも通じる、との信念を持ち、「荒川道場」と呼ばれた猛練習では、天井からつり下げた短冊を日本刀で斬る方法を用いての素振りも行った。68年9月18日、甲子園での阪神戦では阪神・バッキーが王に投じたビーンボールまがいの投球に激高。殴り合いを演じたこともあった。東京六大学の早大で内野手として活躍していた養子の堯(たかし)さんが大洋入り(ヤクルトに即トレード)したのを機に、70年限りで巨人を退団。野球解説者を務めていたが、73年途中からヤクルトの打撃コーチに就任し、74年からは監督を務めた。76年5月、成績不振から辞任した。

その後は神宮バッティングセンターで少年に打撃指導したり、ゴルフ場の総支配人、ゴルフコーチなどを務め、講演活動も精力的に行っていた。

<引用終了>

出典Web:http://www.hochi.co.jp/giants/20161205-OHT1T50088.html

わたくしの子供の時分は、『巨人・大鵬・卵焼き』の時代でありまして。当時の王選手との一本足打法の物語は、それこそ耳に胼胝が出来る程、繰り返し語られたものでありました。尤も一本足打法そのものは、バッティング・フォームを突き詰めて行って編み出されたものではなく、偶発的なものであった事も、今日良く知られている所。また、王選手(わたくしの年代ですと、こう呼ぶのが一番しっくり来るので、こう呼ばせて頂きますが)以外の選手で、荒川氏の指導で才能を開花させた選手も―まあ、王選手を育てただけで十分お釣りがくる訳ですが―特段見当たらない、と云うのもまた有名な話でありまして。

それはさておき、既に伝説となっている一本足打法を編み出した当事者の訃報に接し、時の流れの無情さをまた思い知らされることになりました、謹んで御冥福を御祈りしたいと思います。
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