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2015年11月26日22:45

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歴史之雑談帖(その159)―平仮名の形成

日本人にとっては平仮名・片仮名は当たり前の存在過ぎて、その由来を忘れて仕舞いそうになりますが(今でも小学校辺りで、漢字由来である事をちゃんと習うんですかね)。某「中国嫁日記」の作者氏の別の漫画(「中国工場の琴音ちゃん」)によると、同じ音の表記に二種類の文字があるのは、異国のひとからすると結構難しく感じる様で。

さて、そんな平仮名の成立過程の手掛かりとなりうる様な木簡が出土したそうです。ううむ、面白い。

<引用開始>

「難波津の歌」全文記した木簡初出土 平仮名の完成形に近い字も確認

平安時代の9世紀後半に和歌「難波津(なにわづ)の歌」の全文を墨書した木簡が京都市中京区の平安京跡から初めて出土し26日、京都市埋蔵文化財研究所が発表した。平仮名の完成形に近い字も多く確認され、平仮名成立の解明にもつながる貴重な史料になるという。木簡は長さ34・5センチ、幅3・5センチ、厚さ4ミリのヒノキ製。9世紀後半の国内最古級の平仮名が書かれた土器が出土した右大臣、藤原良相(よしみ)邸近くの邸宅跡から出土した。同時に出土した土器から、木簡は良相邸の土器より30年ほど新しいものとみられる。

「左久也己能波奈(さくやこのはな)」の文字から、5世紀に百済(くだら)から論語などを伝えたとされる王仁(わに)が、仁徳天皇の治世の繁栄を願って詠んだとされる「難波津の歌」(難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花)と判明。「も」や「ふ」など現在の平仮名に近い文字も確認された。歌の左行には、注釈ともみられる一般の文章が書かれていた。

<引用終了>

出典Web:http://www.sankei.com/west/news/151126/wst1511260098-n1.html

もう少し詳しい記事はこちら。

<引用開始>

「難波津の歌」全文木簡初出土、仮名文字「発信点」か 都の中心、作者は文化最先端

平仮名がまだ全国に広がっていない9世紀後半、平安京跡から出土した「難波津の歌」が書かれた木簡は平仮名の完成形に近い字で書かれていた。作者は、都のメーンストリート、朱雀大路沿いに住んでいた人物で、当時の文化の最先端を走る皇族か貴族だったとみられている。「井戸から木簡が出たとき、わずかに浮かび上がった字体から仮名と思いました。でも、それが難波津の歌とは…」と、発掘を担当した京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄・担当係長は当時を振り返る。

難波津の歌は当時、学問の初心者の手習いの手本や歌会の儀式などで登場したとされる。7世紀〜9世紀後半の木簡や土器、瓦などが全国で38例確認されているが、歌が単独で書かれているのが通常。今回のように注釈のような文章が添えられていたのは初めてという。今回の木簡が出土した邸宅跡は朱雀大路沿いで、向かいには当時の歴代天皇が譲位後の離宮と定めた朱雀院があった。3年前に最古級の平仮名が書かれた土器が出土した藤原良相(よしみ)邸にも近い。

木簡の調査にあたった京都大大学院の西山良平教授(日本古代・中世史)は木簡を記した人物について「平安宮に近い都の一等地。朱雀院に関係ある皇室あるいは貴族と考えられる」と話した。木簡の文字は、しっかりとした筆致で、平仮名が誕生すると出てくる字と字を流れるようにつないだ「連綿体」に近い書体も確認できた。西山教授は「木簡の作者は藤原良相とも交流のあった一流の文化人。ここから全国に仮名文字が発信されたのだろう」と思いをはせる。

10世紀に入ると、延喜5(905)年に、醍醐天皇の命で編纂(へんさん)された「古今和歌集」の序文に、連綿体による平仮名が登場する。今回の発見からは、万葉仮名から平仮名への変遷がうかがうことができるという。吉野秋二・京都産業大准教授(日本古代史)は「仮名の移行期に仮名で書かれた歌がほぼ完全な形で出た意義は大きい。今後の基礎史料になる発見だ」と話している。

<引用終了>

出典Web:http://www.sankei.com/west/news/151126/wst1511260099-n1.html

宣伝の謳い文句ではありませんが、千年の都京都からは、色々な物が出土するものでありますね。こうして出て来た実物を、比較的容易く実見出来る関西方面の住人を羨ましく思うのは、こういう時であります。
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