mixiユーザー(id:2312860)

2015年09月20日09:43

207 view

物語の終わり-今井源衛の紫式部(3)

「地上の愛は、男女のそれも、友情も、一切が酬いられない。呼びかけられた愛の言葉は、あらぬ方を見る相手の背中に向って空しく消え、たまたまそれを受けとめるとき、人は例外なく傷つかねばならぬ。無邪気で汚れのないことすらが、かえって不孝の因なのである。ただ一つ、小野の僧庵だけは、寂かな僧房に秋の日ざしが洩れ、時折尼僧の微笑が動く。仏の慈悲、生命の尊さをやさしくさとす僧都の声が、傷ついた女の心を癒すのである。」
「五十四帖を書き続けて、ここに至った作者が、これ以上宮廷について何を物語ることができただろうか。宮廷の世界はその極限まで追いつめられ、新しい展開はもはや僧庵の中にしか見出されそうにない。しかしそれは平安貴族の物語としては成り立ち得ないものだ。宇治十帖の末尾はいちはやく中世隠者の文学を予兆している。」

今井源衛『紫式部』(吉川弘文館・1966年)p.206

.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・

源氏物語の結末については、色々な意見がある。
僕の読後感としていうならば、この物語は終わるべき形で終わったと感じている。
そう感じた理由については、上に引用した今井の言葉に尽くされてる。この続きがあるとしたら、その内容は、宗教的・理念的なものとなっていっただろう。そうなると、もはや「源氏」の物語ではなくなってしまう。

もし、紫式部に「第二作」があって、僧侶か尼僧を主人公として人間の苦悩について描いていたらどうであっただろうか。そんなことも考えてしまう。

源氏物語は、今日の分類で言えば純文学としての要素も持っていると思う。しかし、その読者ということで言えば、少なくとも平安貴族の間では、流行の文学であったようだ。この深刻で悲しくもある物語が広範な支持を得たということは、当時の日本人の感性を伺ううえで貴重な情報だと思う。

引用した最後の言葉、
「宇治十帖の末尾はいちはやく中世隠者の文学を予兆している」
は、さらりと書かれてはいるが、なかなか難しい問題をはらんでいると思う。
果たして、そこまでのものを読み取るべきだろうか。
それは、中世の人々が、源氏物語をどのように読んだかということと関わるかも知れない。いずれ、考えてみよう。

■今井源衛の紫式部
(1)謎(2015年09月03日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945718710&owner_id=2312860
(2)代作?(2015年09月15日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946084407&owner_id=2312860

■源氏物語に関する日記の目次
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=2312860&id=1859548426
1 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する