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2015年06月26日23:09

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死に赴く-柏木における引き歌(3)

「この巻は、柏木の長大な内心語で開始。根源的な人生志向として、死を自らに招き入れつつ、それと生との間の重苦しい屈曲を重ねる。多くの引歌による特徴ある文体である。」

新編日本古典文学全集『源氏物語(4)』(小学館)p.291。「柏木」の巻の頭注より。

「『柏木』冒頭の柏木の心中思惟は幾つかの引き歌によって支えられている。」
「人生の最期に至って、柏木は自分の心の軌跡を歌ことばによって再構成し、死に赴く運命を受容しようとしている。」

国文学「解釈と鑑賞」別冊『源氏物語の鑑賞と基礎知識 No.15 柏木』p.25より

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僕が引き歌に興味を感じたのは、柏木の帖の中盤以降、筋書きで言えば、柏木が若くして亡くなった場面の後あたりからだった。
しかし、引き歌の多用は、柏木の帖の冒頭部分、柏木の末期における独白(内心語・心中思惟)の場面から始まっていたようだ。
上に引用した小学館版『源氏物語』の頭注は、そのことを読者に示している。

ただ、自らの死と向き合うという重大な場面で、「なぜ」引き歌が多様されるのかについては、いまひとつ明確ではない。

「解釈と鑑賞」の別冊は、そのあたりに少し踏み込んで解説してくれている。
「死に赴く運命を受容」するためには、「歌ことば」が重要であるというのだ。
確かに、歌ことばに拠ることによって、自分自身の考えが、自分ひとりのものではなく、少なからぬ人々に共通した、あるいは普遍性を持ったものであるということになるかも知れない。それが、孤独な死を迎えようとしている柏木にとって、小さくはない慰安(なぐさめ)であったのかも知れない。

「引き歌」が使われているということが、単に技法の問題ではなく、登場人物の心情にも関わるものであるかも知れない。そういうことも、この帖(巻)の理解として、必要なことなのかも知れない。
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