春くれば心もとけてあは雪の
あはれふり行く身を知らぬ哉
「春がくると、冬の間閉ざしていた雪や氷が解けるが、私の心も淡雪が解けるようにうちとけて(うれしくなり)、ああ情けないことに、自分ながら本当には、淡雪の降りではないが、古り行く身であることがわかっていないことだなあ。」
奥野陽子『式子内親王集全釈』(風間書房・2001年)
「春が来ると、(かたくなに冬に閉ざされていた私の)心も淡雪と同様に融けて、(新たな気持ちとなり)淡雪が降る如く、あはれにも古りゆく我身を忘れる事よ。」
小田剛『式子内親王全歌注釈』(和泉書院・1995年)
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式子内親王(しょくしないしんのう)の歌を少しだけながめてみて、図書館にあった注釈書にあたってみた。
この歌では、「淡雪が降り」と「古りゆく身」の「ふり」が掛詞になっている。
奥野と小田では、「古りゆく身」についての説明が微妙に違う。
「自分ながら本当には」「古り行く身であることがわかっていないことだなあ」(奥野)
「古りゆく我身を忘れる事よ」(小田)
いずれも、自分の「悟り」の浅さ、無常に対する覚悟の不充分を自戒しているような説明である。奥野の解釈の方が、その自戒の念が強く表れている。対して小田の解釈は、「春」の風情に流される「心情」の側に傾いている。
理屈の上では奥野の解釈の方がストレートなのかも知れないが、個人的には、小田の解釈の方がシックリとする。
いずれがよいか。
もう少し式子内親王について勉強してみないと分からない。
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