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2009年03月07日11:41

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坂井三郎とサン=テグジュペリ(1)

僕は、ミクシィに入った当初から自己紹介の中で、

「尊敬する作家は、サン=テグジュペリ」
「尊敬するパイロットは、坂井三郎」

と書いてきた。この考えは、それ以前から今までの20年来全く変わらないものだ。

同じく「尊敬する」お二人ではあるが、この二人には共通点というものが、ほとんどない。いやむしろ、色々な意味で「両極」にあるとすら思っている。なので、「彼(坂井三郎)は、日本のサン=テグジュペリです」などと言われると、驚くと同時に、納得のいかない気分になる。

というわけで、今日は、二人の「違い」について考えてみたい。

【パイロットとしての資質】

操縦士としての坂井三郎は、本当に素晴らしい。
この人に対しては、「素晴らしい」という言葉さえ些少に過ぎると思っている。
坂井三郎の行ったことこそが本当の意味での「努力」であり、彼が耐えたものこそが本当の意味での「忍耐」であり、彼がくぐり抜けたものこそが本当の意味での「試練」であるとするならば、僕の今までの(44年間の)人生には、「努力」も「忍耐」も「試練」も無かったとすら思う。

そうした凄まじい努力と忍耐のうえに、彼はさまざまな「戦果」を築き上げた。
よく知られているのは、「64機」という撃墜数のことだ。
そして、彼自身は一度も撃墜されていないことも、よく語られることだ。欧州には、100機あるいは300機を超える撃墜数を誇る「エース(撃墜王)」が何人もいる。ただ、彼らの多くは、自らも撃墜された経験を持っている。自国領土上空での戦闘の場合、たとえ攻撃を受けても、機を捨てて「脱出」することによって生還することが出来るからだ。

ただ、僕が坂井三郎の偉業の中で最も驚嘆するのは、彼自身が撃墜されなかったことでもなければ、彼の撃墜数でもない。
真に驚嘆すべきことは、200回とも言われる空戦の中で、彼が1機の僚機も失っていないということだ。当時の帝國海軍航空隊は3機で小隊を組んでいたようだが、坂井の小隊では、一度の墜死も経験していない。
こうしたことを成し遂げることが出来た理由を簡単に記すことは出来ない。その「秘密」を知るには、彼の主著『大空のサムライ』を読むとともに、加藤寛一郎の『零戦の秘術』を併せて読む必要があるだろう。
最後には、「運」としか呼び得ないものも(運を呼び寄せる力とともに)あると思う。

これに対して、パイロットとしてのサン=テグジュペリは、お世辞にも「優秀」とは言えない。また、あまり運にも恵まれていなかった。サン=テグジュペリの年譜を見ると、しばしば「事故」に遭っている。(というか、事故を起こしている。)
http://www13.ocn.ne.jp/~m-room/saintex-note.html

当時の機材の信頼性や安全基準などの問題もあっただろうが、それにしても多すぎる。事故のうちのいくつかについては、彼自身の「不注意」が取り沙汰されている。

サン=テグジュペリの伝記を何冊か読んだ中で、「冒険家」としての彼を賞賛する記述は時々見かけるが、「操縦士」としての彼を賞賛するものは(全くの素人の根拠を欠いた記述を除けば)見た記憶がない。
むしろ、この点については、疑問視するものの方が目につく。

「パイロットとしての資質」という観点からすれば、
「坂井三郎は、日本のサン=テグジュペリだ」
などという言葉は、坂井三郎に対して随分と失礼にあたるのではないかと思う。

【著作について】

坂井三郎とサン=テグジュペリの共通点としては、「パイロットとして経験したことを著作として残した」ということが挙げられるだろう。

サン=テグジュペリは、『夜間飛行』『南方郵便機』『人間の土地』『戦う操縦士』『星の王子さま』などを書いた。
坂井三郎は、『大空のサムライ』のシリーズを書いた。
しかし、彼らの書いたものは、その内容と性格からするならば、やはり両極にあるように思われる。

一言で云うならば、サン=テグジュペリは理念的・空想的であり、坂井三郎はひたすらに具象的・現実的・写実的である。

サン=テグジュペリの「航空文学」の魅力は、リアリズム的な描写の中にも、どこか詩的な香りが漂っているところだ。真実を描くために、事実を犠牲にすることすら、彼は選んでいるように思われる。感傷(センチメンタリズム)が前面に出てくることすらある。

これに対して、坂井三郎の書いたものには、虚飾は元より、装飾的な言辞すら、ほとんどない。視点は主観的かも知れないが、書かれていることは実在的な(リアルな)ことばかりである。読み手の心を動かすものは沢山あるが、詩的な部分など、皆無と言ってよいだろう。
リアリズムの中の「イズム」というほどのものすら見られない。
坂井の著作の中に「理念的」なものがあるとすれば、それは、坂井三郎の操縦士としての、あるいは日本男児としての意地のようなものであり、あるいは帝國海軍航空隊における規律くらいではないかと思う。(操縦士どうしの「人情」のようなものもあるが、それすら、理念的・情緒的というよりも、具体的・写実的に描かれている。)

このように、「書かれていること」あるいは「書き遺したこと」という観点からしても、

「坂井三郎は、日本のサン=テグジュペリだ」

という言葉には、大きな違和を感じる。

(できたら、つづけたいです)

<零戦コミュニティ>
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=40337689&comm_id=22269&page=all
<坂井三郎>
http://mixi.jp/view_community.pl?id=256065

<サンテグジュペリに関する日記>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=233093359&owner_id=2312860
<航空に関する日記>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=233132156&owner_id=2312860

<自己紹介>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=519425265&owner_id=2312860

<高實康稔(長崎大学)の論考>
「サン=テグジュペリ「X将軍への手紙」の「特異性」について」
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/15320/1/kyoyoJ33_02_08_t.pdf
「サン=テグジュペリのエントロピー論」
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/15363/1/kyoyoJ37_01_03_t.pdf

<加藤宏幸「サン・テグジュペリの『青春時代の手紙』の内容と解説」>
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2406/1/al-no41p067-088.pdf
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