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2007年05月28日22:07

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耐え難きを耐える―死について(1)

キサゴータミー(Kisagotami 吉離舎瞿曇弥)は、裕福な家の若い嫁だった。ある日、彼女の幼いひとり息子が死んだ。彼女は悲しみのあまり発狂し、冷たくなった我が子の骸を胸に抱くと、町に出て、誰か子供の病を治せる者はいないかと必死で訊ねてまわった。 町の人びとは彼女に同情したが、さりとて何もできはしなかった。
最後に、この狂った母親は、我が子の骸を胸に、祇園精舎の釈尊のもとを訪ねた。釈尊は言われた。
「この子の病を治してあげよう。それには芥子(けし)の実がいる。町に行き、四・五粒もらってきなさい。しかし、その芥子の実は、今まで一度も身内から死者を出したことのない人の家でもらわねばならない」
キサゴータミーは、町に出て芥子の実を求めた。芥子の実は、どの家にもあった。しかしどの家でも、身内の誰かを亡くしていた。彼女は必死に探しまわったが、一度も死者を出したことのない家は、とうとう見つからなかった。彼女は、はっと悟り、正気に戻った。そして、我が子の冷たい骸を墓所に置くと、釈尊のもとに帰り、弟子となった。

パーリ語仏典「長老尼偈」(Therîgâthâ)より

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昨日も、今日も、多くの方が亡くなった。そして明日も、さまざまな場所でさまざまな形でさまざまな人が亡くなることだろう。死は、怖れるにはたりないものだ。死は、万人に訪れる。死から逃れられる人間などいない。人間にとって、死こそ絶対の必然なのだ。
しかし、悲しむべき死というものがある。耐え難い悲しみをもたらす死もある。親にとって、幼い子供を失うということは、そのような死の典型ではないかと想う。
引用した説話は(言葉を選ばずに言うならば)、僕の大好きなお話だ。仏教という宗教の性格をよく表していると思う。仏教説話の中でも有名なものなので、ご存知の方も多いだろう。ある女を最も深い悲しみが襲ったとき、御仏は何か説教を垂れたりはしなかった。ただ、その女が悟りを得るためのキッカケだけを与えた。
御仏の教えの本質は何だろうか。それは、必ずしも、唯一絶対の真理を説いて聞かせることではない。様々な苦しみや悲しみのある人生を生きる術を教えている。否、それを術と呼ぶのは不適切だろう。倫理よりも道徳よりも、より根源的な人間としての態度、あるいは境地、つまり「悟り」を得るための教えである。
仏陀という言葉は、神を意味するものでもなく、超人を意味するのでもない。仏陀という言葉の原義は、「目覚めた人」あるいは「正しく悟った人」に対する尊称なのだそうだ。誰もが仏となる可能性を持っている。物語の中の釈尊は、その女が悟りを得るための手助けをしただけのことなのだ。しかし、それが何よりも有難いことなのだ。
仏教は、悲しみを乗り越えるための教えである。だから、新たな悲しみを生み出すことを望まない。仏教は、争いを好まない。戦う者が、御仏の慈悲にすがったことはあるかも知れない。しかし、御仏の名の下に戦った者など、短くはない仏教の歴史の中でも皆無なのではないかと思う。

僕は、そのような生き方、考え方として、仏教というものを信奉している。そして、その生き方、考え方は、僕が信奉する哲学である無神論的実存主義と矛盾しないものだと思っている。

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