mixiユーザー(id:2312860)

2007年03月08日01:04

117 view

勲一等旭日大綬章

3月9日の午後6時15分[日本時間5時15分]、ロージイ・オンドネル指揮の第73爆撃航空団から、B―29の最初の一群がサイパン島イスリイ飛行場を離陸し、旋回をはじめた。テニアン島を出た313爆撃飛行団と、グアム島の314爆撃飛行団の各機が加わって、7時17分には、325機の銀色の大型爆撃機が、日本帝国のまさに心臓部に向かって、7時間に及ぶ単調な飛行を開始した。(中略)
各「スーパー・フォートレス」[B−29の呼称]の爆弾倉内に8トンずつ詰めこまれた焼夷弾が落ちると、東京市街に広く小さな炎が立ち上がるのに時間はかからなかった。小火災はたちまち広がって大火へと変わり、信じがたいほど広大な火の嵐になっていった。
火の嵐はおびただしい量の酸素を呑みこむため、市民たちは炎によるよりも窒息で倒れた。火事で生じたすさまじい上昇気流は、たき火の燃えカスのように「スーパー・フォートレス」を翻弄した。
B−29のクルーにとって夜間空襲は、昼間のような明るさに変わった。地表の市民たちにとっては、まるで東京がこの世から地獄の中に落ちこんだようだった。
大火によって26万7171の建物が燃え崩れ、8万3千人が死んだ――1日の作戦行動による死者としては最高数で、連合軍の大規模空襲を受けたハンブルクやドレスデン、8月に原子爆弾を落とされた広島の死者数を超える。数百万人が焼け出され、ひどい寒さのなかで食料も衣類もろくになく、今後への不安におびえた。(中略)
搭乗員たちの不安なムードは、東京での成功とともに劇的に一変した。彼らは敵の首都の16.8平方マイル(43.5平方キロ)を焼きつくしたばかりか、自滅作戦とすら思われたのに、損失率は4%にすぎなかったからだ(中略)
焼夷弾空襲での民間人の死傷者を思うと、私は幸せな気分になれなかったが、とりわけ心配したわけでもなかった。[大量殺傷が]私の決心をなんら鈍らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人――民間人と軍人の両方――を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ。

カーチス・E.ルメイ、ビル・イェーン『超・空の要塞:B―29』
渡辺洋二訳(朝日ソノラマ・1991年)

.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・

共著者の一人、空軍元帥ルメイは、第二次大戦末期の対日本本土空襲の最高司令官(爆撃集団司令官)であった。3月10日の東京大空襲も、敗戦の日まで続く主要都市への空襲も、そして、広島・長崎への原子力爆弾の投下も、彼の指揮の下に行われた。この本は、未曾有の空爆に関わった当事者の一人であるルメイによる貴重な証言の書である。

昭和20年(1945年)の空襲で肉親を失った人にとっては、ルメイは「仇」であるかも知れない。ルメイの指揮によって、数十万人の日本人が死んだという歴史的な事実は動かし難い。しかし、彼は狂人でもなければ、とりたてて冷血な人物でもなかったようだ。訓練に対しては極めて厳しく、規律に対しても厳格ではあったが、部下からの信望は厚かったという紹介もある。少なくとも、軍人としては優秀で、合理的な思考の持ち主であったのだろう。

戦争という背景、軍人としての使命というものから離れて、ルメイという人物の人格を攻撃することは、的はずれかも知れないし、一種の逆恨みでしかないのかも知れない。しかし、彼を賞賛したり、栄誉を称えるべきかどうかは別問題だ。
前にも書いたことがあるが、1964年(僕が生まれた年)、日本政府はルメイに対して「勲一等旭日大綬章」を授与する。理由は、航空自衛隊創設に際して指導を行ない「我が国防衛力の拡充強化に関して、米軍の対日協力、援助に寄与した」ということだったそうだ。
当時の社会党や広島地方の労働組合などからは強い反対や抗議があったそうだが、授与は12月7日、航空自衛隊入間基地で行われる。

ルメイにしてみれば、焼夷弾で婦女子を含む数十万の日本人を焼き殺すことも「アメリカの国益」のためであり、それによってアメリカ人(将兵)の犠牲を少しでも小さくすることは、意義あることであるばかりでなく、彼の義務でもあったかも知れない。1945年当初、日本側は本土決戦の準備を進めていたし、アメリカ側も勝利のためには本州上陸が必要となるであろうことを予想していた。硫黄島での激戦から考えて、本土決戦では日米双方に甚大なる被害が生じるであろうと考えられていた。ルメイが指揮した圧倒的な空爆により、日本は物質的にも精神的にも、本土決戦の可能性を失い、降伏するに至る。
自らが徹底的に破壊した日本に対して、その空軍力(航空自衛隊)の建設に貢献すること。これもまた、1964年の時点では、「アメリカの国益」に適うことだった。
ルメイにしてみれば、常に首尾一貫、アメリカ合衆国とアメリカ国民のために尽くしたということなのだろう。

ルメイの著作の訳者であり、ルメイの思想の戦略的合理性を認める渡辺洋二氏ですら、この授章について「アメリカの顔色をうかがい、選挙区以外の国民の感情など三の次、四の次という政治家ばかりだから、複雑な思いこそすれ、驚くには当たらない」と皮肉る。

早乙女勝元氏も「ルメイ少将[当時]は、戦時中の日本人にとっては、ニミッツ、マッカーサーとならぶ“鬼畜ルメイ”」であったことを指摘し、「佐藤栄作氏を総理大臣にした日本政府」の行為を「人間としての節操と尊厳を無視したこと」と批判している。

本来、「勲一等旭日大綬章」の授与は、天皇が直々に行うものらしい。しかし、昭和天皇はルメイには会わなかったらしい。そして、航空自衛隊の幕僚長が、ルメイに勲章を手渡したのだそうだ。その日、12月7日は、「真珠湾攻撃」の日(ハワイ現地時間)だった。
もし、誰かが意図してこの日を選んだのだとしたら、随分と豪胆な話だ。

.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・

歴史の中では、多くのことが簡単に忘れ去られてゆく。たとえば、ルメイ言う「フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人――民間人と軍人の両方――を、日本人がどんなふうに扱ったのか」について、僕は何も知らない。
いつか調べてみようと思っている。
1 6

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する