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2014年11月20日22:08

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仏教と武士道−義経記(5)

「鈴木既に弓手に二騎、馬手〔に〕三騎斬伏せ、七八騎に手負せて、我が身も痛手負ひ、「亀井六郎犬死すな、重家は今はかうぞ」と、是を最期の言葉にて、腹掻切つて伏しにけり。「紀伊國鈴木〔藤代〕を出でし日より、命をば君に奉る。今思はず一所にて死し候はんこそ嬉しく候へ。死出の山にては必ず待ち給へ」とて、鎧の草摺かなぐり捨てて、「音にも聞くらん目にも見よ。鈴木三郎が弟に亀井六郎、生年二十三、弓矢の手並日来人に知られたれども、東の方の奴原は未だ知らじ。初めて物見せん」と言ひも果てず、大勢の中へ割つて入り、弓手にあひつけ、馬手にせめつけ、斬りけるに、面を向ふる者ぞなき。敵三騎討取り、六騎に手を負せて、我が身も大事の疵数多負ひければ、鎧の上帯押寛げ、腹掻切つて、兄の伏したる所に、同じ枕に伏しにけり。」

『義経記』巻第八「五 衣川合戦の事」より
http://www.st.rim.or.jp/~success/gikeiki_08.html

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武士道における仏教の影響というか役割については、新渡戸稲造も『武士道』の中で何か書いていたように記憶している。今、あえてそれを参照せず、『義経記』のクライマックスでもある「衣川合戦の事」を読んでいて感じたことを記す。

武士道が仏教から学んだことのうち最大のものは、「死」に対する態度だと思う。輪廻転生、前世、後世という世界観が、武士たちの行動を支配している。現世で悪いことが起きるのは前世のせいであり、現世の不運は後世では濯がれると考える。現世における辛い別れも、後世(来世)における再会を期待することで慰められる。そして、「死」というものを怖れなくなる。「死を怖れる」ということは、武士にとっては恥ずかしいことだ。「死を怖れない」ことが、武士の美意識に適う。その美意識に仏教的生死観が結びつくことによって、死を怖れないことが行動原理になり、行動様式になる。
武士たちは、仏教的世界観にすがる、あるいはそれを受容することによって、この世の凄惨さを耐えることができる。不条理な死を受け入れることができる。

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上に引用した『義経記』の一節の中に「犬死」という言葉がある。兄が弟に対して「犬死すな」というのである。逆に言えば、武士らしく死ねということだろう。その武士らしい死に方として、この場面で三郎・六郎兄弟は、二人とも「腹を掻き切る」のである。最期は自分の手で始末をつけることが、犬死ではない死に方ということらしい。

この死に対する様式的な美的感覚は、仏教には無いものだ。
仏教は、「犬死」、つまり「犬のように野たれ死ぬこと」を否定していない。むしろ、そのような「自然な死」を肯定すらしているようにも思われる。

武士道には、深く仏教的世界観に根ざす部分がある。他方、武士道の中には仏教とは無縁な、あるいは反仏教的とも言える要素もある。
武士道の中の非仏教的な要素は、何に由来するのか。非仏教的な観念体系が、どのようにして仏教的世界観を吸収していったのか。
そんなことについても、いずれ考えてみたい。

■祖父からの伝承-義経記(1)(2014年10月25日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1934261371&owner_id=2312860
■忠信最期の事(1)−義経記(2)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1934506092&owner_id=2312860
■あだなるは女の心−忠信最期の事(2)−義経記(3)(2014年11月01日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1934553393&owner_id=2312860

■義経デジタル文庫
http://www.st.rim.or.jp/~success/bunko_yositune.html
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