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2020年08月30日23:08

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たけきよこれ論その2


 北野武は仏教的な円的輪廻とはまた違った日本的な四季巡るかのような循環あらわし、その円環に人間たちの生き様を置いてみせる。『監督・ばんざい!』において、様々なタイプの映画作品、登場人物たちが表される。日本映画界のダメ出しがされながらも、現況の邦画の総体的傾向が表され、そこから母娘の顔したメテオあらわされ『約束の日』に入る。批判しているとはいっても、昭和三十年代もの、Jホラー、忍者、恋愛もの、とコンテンポラリー邦画に表される傾向が総て、この作品にテクストとして在るのである。主人公はボディダブルを伴って、四季折々の側面をもつ映画を言及する。映画監督において、自己とフィクションは常に伴い共存している。黒沢清はこの世界に有る情念の哀しみを言葉にあらわされない余情として奥行かせ幽玄あらわす。『叫』において、恋人はなにも語らないまま主人公に寄り添っている。その間、家族愛や夫婦愛を壊す者たちが海水に顔を浸けられ殺される。絆が壊れている都市社会が主人公の知らないまわりに在る。是枝裕和は日本人的に肝心なこと遠心させてイシュー育むシャイにして奥ゆかしい社会性に、見え隠れするイビツを求心してみせる。しかし、その歪さ表されるのは後であり、幻の光など初期作品では知り得ない想いがなにかという探究が主人公のなかに表される。『ワンダフルライフ』において、死んでしまった井浦新が知ることができないフィアンセの気持ちがあるのであり、彼はあの世に成就できないでいる。 
 3Kはオリエンタリズムを楽しませながらも、きわめて世界的に共有するエスプリ/スピリット/ガイスト/精霊、すなわち文化なるものを顕してみせる。北野は無情/無常の世界に生きているということの暴力性、そしてその同じ地平線に生きるからこその人間の死と再生の反復、その円相を倫理的な美として描いてみせる。『監督・ばんざい!』において、メテオが現れ、そこには円のカタチした母娘のダブルボディが表される。彼女たちは映画の女性像を登場早々壊しにかかっている。と同時に、キタノブルーの暴力に潜在する叙情を表しもする。ラストの爆発は死があるからこそ人間の生が強く存在せしめらること表しせしめる。男はロボットから抜け出し、捕らわれのない心をもって娘を見つめる。女は暴力的虚構から抜け出した(そしてやがて虚構に戻るであろう)男に愛を感じる。ラストの爆発と死。死と生は円相に循環する。監督バンザイ。黒沢は世界は涅槃に包まれるがゆえ此処には愛が確かに存在すること啓示する。『叫』において、恋人はなにも語らないまま主人公に寄り添っている。その間、家族愛や夫婦愛を壊す者たちが海水に顔を浸けられ殺される。殺す者もまた絆を尊んではいない。絆が壊れている都市社会が表される。海は都市に浸食される。その土地に建つ場所では絆は壊されている。主人公は絆失われた社会を嘆く女性たちの骨を拾い、旅に出る(主人公は「必ず追いつく」と言ったが、これがそれを表すことだろう)。絆が壊れている場所で、恋人は叫びをあげる。彼女は愛がいまだ訪れない世界で、愛を待つ。是枝裕和は拡がりをもてない物質型人間社会に正対する結びつきへの憧憬を顕わしてみせる。『ワンダフルライフ』において、井浦新はフィアンセの夫を通して、彼女の現世での育みを知る。そしてこの現世から離れたその世界で、知ることができなかった想い、彼女は彼を想っていたことを知る。


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