mixiユーザー(id:2938771)

2019年08月11日00:38

117 view

小さな会話、その9

「読書もしない人がどうしてマニアなの」
 三十代の半ばぐらいだったろうか。ストレートの髪を一本に束ねたのと、細身のジーンズが印象的な美人編集長だった。経緯は知らないが、彼女はマニア雑誌の編集長をしていた。化粧こそ薄いが、しかし、SМクラブの女王様なら確実にトップを取れると思われるほどに、とにかく、いい女だった。
 打ち合わせの喫茶店で彼女と会うときや、たまに連れて行ってもらえたゴールデン街では、筆者は何だか自分が他の男たちよりも格上の男であるかのような錯覚を抱けた。一緒にいるだけで気分がいい、それほどの美人だったのだ。ゴールデン街では、彼女はマニア雑誌の編集長をやっていることを公言していたようなのだが、あの頃のゴールデン街には、それを気にするような人は飲んでいなかった。どんな仕事をしているかよりも、どんな知識があり、どんな思想を持ち、どこに拘るのか、そのほうが重要だったからだ。
 打ち合わせの度に、彼女は文庫を一冊持って来て、それを筆者に渡す。次に会うまでに読んでおかないと不機嫌になる。いや、不機嫌というよりは軽蔑されるのだ。それが怖いので、どれほど締め切りに迫られていようと必死に読んだものだった。別に、彼女が好きな本でもなければ、仕事の上で参考になるというものでもなかった。ゆえに、渡された文庫の内容についてゴールデン街で悪口を言い合うということも、しばしばだった。悪口を言っていると、その作家のファンのような人がいて、それとケンカになることもあった。
 仕事が欲しいとか、彼女が美人だということとは別に、筆者と彼女が対立することはまったくなかった。美人で頭のいい彼女とモテない人生を悪い頭で切り抜けていた筆者の価値観が一致していたのは不思議だったが、何しろ文学的にも政治的にも彼女と対立することはなかったのだ。しかし、それだけに、見知らぬ他人とは、よくケンカになった。
 彼女は筆者がマニア系のビニ本とビデオで儲けたことを知っていた。それだけに、ビニ本やビデオはマニア世界を壊してしまうんだ、と、その世界に二度ともどらないようにと何度も筆者に警告した。その数年後、筆者はビデオの仕事をメインにする出版社に高額のギャラで誘われることになるのだが、やらなかった。その頃には、もう、とっくに彼女とは音信不通になっていたのに、それでも、筆者は二度とビデオ販売には手を出さなかったのだ。
 そして、それからさらに数十年。今、筆者は、まさに彼女と同じことを言っているのだ。文章を読まず書かず、会話だけで、肉体だけでマニアだと言う人たちが増えてしまうと、マニア世界は幼稚になってしまうのだ。それは当たり前なのだ。性とは、活字を知らない子供が面白がって口にするところからはじまるものだからなのだ。SМは少しずれてしまえば、ただのギャグになってしまうのだ。ゆえに、文章が必要なのだ。会話と行為だけでは、子供の幼稚なエッチになってしまうのだ。いや、もう、すでにマニア世界は文学を失い、そうなってしまっているのかもしれないのだ。
 マニアが読書を止めるのは、ダンサーがリズムを捨てること、芸術家が絵を捨てること、アスリートがランニングを止めること、料理人がインスタント調味料を使うこと、そうしたことなのだ、と、彼女は言っていた。それが今は分かる。あの彼女はどうしているのだろうか。会いたい。彼女に会えないことが今は本当に寂しい。寂しいのだ。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年08月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031