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2019年04月30日16:52

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悟りと解脱

精と気と神と言う。
生命と世界、余分なものを排すれば、
生命エネルギーと因果だけ、
霞のような巡りだけである。
物はすべて、気となる。
神は空間であろう。無と同義。
アートマンは無い。神は頭、精は尾てい骨である。
アートマンとは永遠なる者。永遠は無い。
どこを見ても無常であり、
一欠けらに過ぎない。
我はどこを見ても一欠けらしかない。
我とは、不完全成体なのだ。
完全成体は無い。
我のどこを見ても、一欠けらであり、一欠けらで一つとして、
完成した者は無い。
これを諸法無我と言う。
何かが必要なのだ。故に、因果、縁起と言う。
例えば、空間で目と考えだけが欲しいとして、
そういうものを作るにしても、他の物が必要になる。
脳と目が必要だが、脳には頭蓋骨や、栄養が、目には目玉と涙が、
涙袋や、水分と栄養摂取の口、安全のため、鼻、など、
付随していく。
見ると考えるだけでも、これらが必要になる。
目玉と脳だけでは生きられないのである。
そうして考え進めると、欠片はあっても、一つで完全な者、
永遠なる者は存在しない。
それを受け入れ、妄想が止めば、はるかに生き易くなるのだ。
それを悟りと言っても良い。
妄想からの解脱と言っても良い。
はるかに生き易くなるのだから。
これは智慧の勝利であり、
勝利は静けさという獲得品をもたらす。
それが仏法の胆なのだ。
瞑想には、理性的であることが肝要である。
精進あるべきなり。
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