精と気と神と言う。
生命と世界、余分なものを排すれば、
生命エネルギーと因果だけ、
霞のような巡りだけである。
物はすべて、気となる。
神は空間であろう。無と同義。
アートマンは無い。神は頭、精は尾てい骨である。
アートマンとは永遠なる者。永遠は無い。
どこを見ても無常であり、
一欠けらに過ぎない。
我はどこを見ても一欠けらしかない。
我とは、不完全成体なのだ。
完全成体は無い。
我のどこを見ても、一欠けらであり、一欠けらで一つとして、
完成した者は無い。
これを諸法無我と言う。
何かが必要なのだ。故に、因果、縁起と言う。
例えば、空間で目と考えだけが欲しいとして、
そういうものを作るにしても、他の物が必要になる。
脳と目が必要だが、脳には頭蓋骨や、栄養が、目には目玉と涙が、
涙袋や、水分と栄養摂取の口、安全のため、鼻、など、
付随していく。
見ると考えるだけでも、これらが必要になる。
目玉と脳だけでは生きられないのである。
そうして考え進めると、欠片はあっても、一つで完全な者、
永遠なる者は存在しない。
それを受け入れ、妄想が止めば、はるかに生き易くなるのだ。
それを悟りと言っても良い。
妄想からの解脱と言っても良い。
はるかに生き易くなるのだから。
これは智慧の勝利であり、
勝利は静けさという獲得品をもたらす。
それが仏法の胆なのだ。
瞑想には、理性的であることが肝要である。
精進あるべきなり。
ログインしてコメントを確認・投稿する