私の母は86歳になりますが、いまだに自分の精神性を高めようとするような行動と言動を取ろうとします。先日も親鸞会という浄土真宗のワークショップへ出かけていました。そして帰ってきて言うには「話が浅い」です。大学の宗教学や仏教学の教授クラスのお話じゃないと満足しないようです。
我が母ながらあきれるばかりです。そんな母と話すことと言えば「仏様とは、神様とは」というようなお話になります。結論から言えば、両者ともに人それぞれの心の中にそれぞれのお姿があるということでしょうか。本当にこの二つの存在にお会いになった人は誰もいないわけで、仏陀は実在の人物ですが、霊的な存在となってどこかにはおられるのかもしれません。神様についてはその眷属だろうが、親戚だろうが見たことも会ったことも誰もできてはいないわけです。
こうだろうああだろうと推測したり考察したりすることは自由ですが、何も証明されたものはないわけです。そういえば死後の世界も霊界も誰もその存在を証明した人はいないわけです。
全ては仮説、憶測の域をでていないのです。でも人がそういうものを求めたり大切に思ったりするのは何故なのか?たぶん「心」というものがそういうものを求めるのだろうと思います。
何故心に愛や憎しみが生まれるのか?そこにどう「救い」というものを見出せはいいのか?それこそが仏様や神様というものが求められる原因なのかもしれません。
老い先短い母が求めてやまないもの。それは人が生きている限り心の平安をこそ求める生き物なのだという証明にはなるのかもしれません。
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