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2017年10月06日14:17

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キャロル


『キャロル』
  愛らしくも、クローゼットの中から出ていけるような力強さがあるエンディングである。ヨーロッパ映画が描くような共約不可能性を求め合うことへの希求が表されるのではなく、やはりアメリカ映画らしい力強さがある。そしてアメリカ映画らしい、孤独は全編に表されている。ふたりが乗ったクルマが潜ってゆくトンネルに表されるヒカリには、女性の生理的なもの、生理性、まさに生きる理性的に光りや、時代に希求される意識の進歩が輝くかのように闇に溶けている。
 クローゼットの中にいることは埒外にいるということである。群衆の中にいても彼女たちは、孤独をいつも感じていた。あの美しいラブシーンの前に、互いがその孤独を告げている。アイクがいた50年代のアメリカ、埒外にいることは醜いと思われている。そんなことないわ、と親権をめぐる協議会のシークエンスで、キャロルは言う。彼女とテレーズの思うことや所作振る舞いだけに表されるでなく、断片/グリッドにはニューヨークで確かに変わりゆく女性たちの姿もまた在る。
 多様体が表される。Wトッドのもうひとり、トッド・ソロンズが『おわらない物語 アビバの場合』や『ハピネス』で表すような変態- 変わってゆく態 –と違って、へインズの場合は内面的同一性を表すものとしてのそれであり、非健常者と思われている者たちのアイデンティティは互いに認め合える変容に在るのである。テレーズが最初に見るキャロルは、その少しのモメントに消えてしまう。しかし、瞼に意識するものは寧ろテレーズの方になされる。冒頭の方のホテルリッツでのシークエンス、我々が観るものはキャロルの顔であり、テレーズの後ろ姿、そして彼女が振り向き見せる彼女自身である。ふたりは出会い、そして意識するふたりとして、忘却されるテレーズと写真のキャロル、様々に変化しながらヴァイスヴァーサ。
  成長する彼女の姿がある。性の対象にされながらも頼られる対象ではないうつろのなかで泣く姿。他者の経験に対して不潔に思う稚拙なところ、忘却されるテリーに写し取られるキャロル、生きる理性として希求される力強さが表されてゆく。誰にしもあるような、例えば『アイム・ノット・ゼア』のディランにも表されるような変容する多様体が、ふたりを中心とした女性たちに表される。
  ヒトの質感は残酷にまで捉えられ、風景は美しく捉えられる。美しい映像である。DPのエドワード・ラックマン、なるほど、スーザン・シーデルマンやデニス・ホッパーとも組んでいるのか。ドパーミンがワインのようにとろけるように素敵すぎる。コーエンズとやってるときはほとんど意識されないような音楽であるが、それが上手くいくのか、へインズと組むときカーター・バーウェルは極上なムードを届けてくれる。
  



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