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2017年03月20日23:34

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デス・プルーフ



『デス・プルーフ』
 エクスタシーが表される。ヴィスコンティやベルトルッチ、或いはクローネンバーグのクラッシュのような退廃的なエロスではなく、ヘルシーなエロスである。一見、敬虔なキリスト教に反する若者のフラチが罰せられるかのような、キャンプ場などで惨劇あらわされるスラッシャー映画のようであるが、最初の出来事、ジャンプしたりプチプチと視聴覚的になるノイズは、待ち人来ずの娘や看板娘たちにとっての沸点にエクスタシーするものが表されるのである。砕け散る肉体とカークラッシュ。
 今回のタランティーノ、会話がテンションを高めていくというより、日常が表されるなか、その延長線上に唐突にデンジャー現れるというセンス、会話には伏線が表される。最初の出来事、娘たちはエクスタシーを感じる。彼女たちが潜在的に求めているかのようなそれが表される。それをもたらすスタントマンマイクは、映画的スタンダードに、アルコールを摂取しないことは敬虔な教徒のようであり、母からもらったクルマはサイコなノーマンベイツ的な要素を表す。
 次の出来事はレバノンでの出来事、白黒の映像はアイマスクをするアバナシーに合わせるかのような、まだ目をつぶり感覚が鈍いものに合せるかのようなセンスを表すものであり、彼女がアイマスクをとった後、鮮明なカラーが表される。そのカラーに、新橋で立ち喰い寿司を3軒ハシゴするモデルたちのヴァイタリティーが表される。
  タランティーノ的にはハナ垂れアマチュア娘よりソフィスティケーションされているのだろう。彼女たちはマチュアにワイルドである。スタントマンの次の獲物は、スタントマンの思惑を凌駕したワイルドネス。そんなアマゾネスたちはスタントマンマイクという何者か分からない存在とは違い我々が会話を聴く身近な存在である。そして、彼女たちは我々が見知らぬ、しかし欲望するパワーを放つ。それもまたエクスタシー。

 タランティーノは決して懐古イズムなのではなく、ハルフォスターが言うようなアヴァンガルドが未来から回帰するような現在を表す。ヘイトフル8の、来るかどうか分からないものの、そのモメントに首吊られる女に表されるものに、アヴァンガルドは表される。パルプフィクションをはじめとした多くの彼のテクストの、乱れ散る時間帯にそれは表される。デスプルーフにおいて、白黒の空白する時間からの回帰がその前後の出来事、そのエクスタシーに表される。ねじれた時間から正気を取り戻そうとする真理を描くコーエンズに比して、タランティーノがやることは意味なく、それゆえに前衛しているのかもしれない。感覚だ。シミュラークってる時代はまだ続きそうであり、その感覚はまだまだ未来から引き寄せれるのではないか。

 ダーティーヒーローを演じてきたラッセルを、クールなダーティヴィリアンからいきなり一転させ、声をひっくり返した情けなさに変化させるタランティーノ、クルーニーのコメディアンぶりを発揮させるコーエンズと同じようにヒューマン描くこと長けている。





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