『
コンクリート・ナイト』@トーキョー ノーザンライツ フェスティバル 2016
2014年のフィンランド映画祭ですでに見ていたのに、すっかり失念してチケットを購入。(苦笑)
いい機会だから改めて見直すことに…。
翻訳が新規作成されているかと淡い期待をしたが、依然見たままの状態だった。
(実を言うと字幕を読んで「あれ?これ見たことあるぞ」と気付いた次第…。苦笑)
2014年のアカデミー賞外国語部門にフィンランド代表として選出されただけあり、難解な中にも趣きがある。
雨、海、蒸気…と全編通して<水>が様々な形で描かれる。
芸術作品で水といえば、生命の誕生としての<水>と(溺れる)死のイメージの<水>だ。
真逆ではあるが、一様に生命と密接な関係にある。
そしてタイトルの<コンクリート>はそれと反対のイメージを想起。
それが本作には生かされている。
少年シモが置かれている状況は決して明るくはない。
兄は不良グループと付き合いがあり身代わりでムショに入ることになってる。
一家に父の姿はなく、母親はおそらく売春まがいのことをして家計費を捻出しているのだろう。
まだ14歳のシモに解決できることは何もない。
かといって抜け出すこともできない絶望的な状況をコンクリート色であるモノクロのトーンで塗りこめている。
(ヘルシンキのモノクロ映像はとても美しいのだが…)
タイトルの<ナイト(夜)>の意味合いも絶望とつながるか。
常に見る夢がネガティヴな暗示に溢れていたのも同様なのだろう。
劇中には鏡も頻繁に表れる。
そこに映った自身の姿がボケていたり二重に映っていたりするのは精神状態を如実に反映する。
向かいのアパートにゲイ男性が住んでいるのだが、向かいのアパート自体が対を示していると思われる。
たどり着きたくとも手の届かないもう一つの世界を示すのか。
そこでのナルキッソスを思わせる撮影風景と忌み嫌うゲイの男性の存在こそ、シモの本心を匂わせる。
ラストシーンの、そこにしか“希望”がないという絶望感に打ちひしがれる。

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