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2016年01月11日23:47

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「スタジオパークからこんにちは」(ゲスト:ディーン・フジオカ)

*スタジオパーク観覧から帰宅後、録画を確認して書き起こしました。
多少端折った部分もありますが、
台湾映画、中国映画のファンである私にとって、
ディーンさんの発言はとても興味深かったので、彼の言葉はほぼ忠実にそのまま。
分かりやすくするため、2〜3、語順を入れ替えた部分はあります。

<近況>
・お正月はどう過ごされたんですか?
「荷ほどき、って言うんですか、
一ヵ月くらい前に大阪から東京に引っ越してきて、
段ボールの中に囲まれてたので。
東京で次の仕事があるので。
僕、常に仕事があるところに住むっていう形で、
東京もホテルであったり、ウィークリー(マンション?)みたいな感じで。
やっと家みたいになってきましたね」

・2016年の抱負
MC二人も各々の抱負を色紙に書いたものを掲げる。
高畑さん「身の程を知って生きる」
伊藤アナ「一日一新」
次にディーンさん、書いて来た色紙を伏せて持って「行きますよー」
見せた言葉は色紙いっぱいに大きく書かれた「定住」。
(ご本人曰く「子どもみたいな字ですみません」)

「さっきも言ったんですが、お仕事のあるところに住むっていう感じで、
三カ月か半年に一回、常に引越して来たんですね、今まで。
でも結構しんどいんですよ。
やりたいことも制限されてしまうし、持てる荷物とか家具も制限されちゃうんで。
ネクストレベルに行くためにも、定住して集中することが大事かなと思って」

<芸名の由来>
・お名前から最初日系の方かと思っていたら、福島のご出身なんですね。
 日本人!
「はい、そうです」

・ディーンというのは?
「香港でこの仕事を始めた時に使い始めた名前なんですけど、
やっぱり覚えてもらうことってすごく大事じゃないですか。
選んでもらう立場なので。
広東語で靛 (ディーン)というのは、
英語で言うとcrazy(クレイジー)みたいな感じの意味なんですね。
ニックネーム(愛称)って”阿(ア)”ってつけるんですけど、
”阿靛(アディーン)”って言うと、
クレイジーじゃん、って感じで覚えていただいて。
自分もすごくこのキャリアの中で、
この名前が幸運をもたらしてくれたんじゃないかと、
感謝の気持ちも込めてずうっと使ってますね。

・ご自分でお付けになったの?
「まあ、人にもらったっていうのがきっかけなんですけど。
僕、学生時代、アメリカに住んでたんですね。
その時にもらったっていうのがきっかけなんですが、
イングリッシュネームみたいな感じで。
生活しているとどうしても必要になってくるので」

・香港でデビューされて、台湾のドラマにも出て、アメリカのドラマにも。
そして日本。ある意味逆輸入俳優。
よくぞ帰ってきて下さいました。
「よくぞ呼んで下さいました」

<「あさが来た」五代役の反響>
・ファックス投稿の五代さまイラストを見る
「すごいですね。お上手ですねー」

「反響には僕もびっくりしてます。
僕の場合、日本以外でのキャリアがなかったんで。
NHKの作品というと日本以外でも見れるじゃないですか、
ホテルとか、大使館とか、レストランとかで。
自分がそういう立場で、たとえばジャカルタの日本大使館で
書類申請を待っている間に、
NHKとかを待合室のTVで見てたりしてた側だったんで、
すごく自分でも嬉しいし、
同じかたちで今まで自分を応援してくれてた人たちの目にも、
日本以外でも目にとまる機会があるっていうのは、
さすがNHKの影響力っていうのは国際的っていうか。
NHKは全世界放送ですからね」

・地元大阪では大変な人気
「楽しかったです、大阪」

街頭インタビューの声)
・かっこいい 人柄も演技もいい 最高
・やることなすこと全部いい
・りりしい 近代化に向けての役にぴったり
・男前 横向いた顔が好き

・大阪の街を歩かれたるする?
「そうですね。住んでた時はしょっちゅう散歩したりとか」

・囲まれちゃうでしょう?
「まあでも興味を持ってもらえるのは嬉しいので、
お話させてもらったりとか」

五代ダイジェスト映像)
■炭鉱に赴き、あさにファーストペンギンの話をする
■加野屋にてあさに
「焦ることはありません。それよりも問題は後世に何を残せるかだけです」
■東京の五代宅 大久保の死で取り乱し、あさに抱きつく
 ウイスキーに酔って眠り込んだあさを、テーブルに腰かけて見つめる

<五代友厚について>
・五代は実在の人物ですが、役作りは?
「そうですね、やっぱり最初は本当に白紙だったんで、
五代友厚っていう人物のことももちろんそうだし、
当時の、明治維新前後の日本の状況であったり、
当時の薩摩藩っていう薩摩の国に侍として生まれて、
侍の子として育てられるっていうのはどういうことなのか、
っていうことから、すべていちから調べ直して。
自分の祖国のことを勉強し直す機会になりましたし、
五代さんって、僕の中で薩摩の侍のままなんですよ、最後まで。
もちろん途中で関西弁になったりとか、
経済とか政治のことを担っていくわけですけど
やっぱり根本にあるものはサムライスピリットって言うんですか、
だからそこは自分が薩摩弁で感じた…言語が持つDNAってありますよね。
そこにすごく役作りの段階では助けられたというか。
もちろん衣装だったり、メークだったり、
いろんなもので自分がもらえるインスピレーションってたくさんあるわけですよね」

・”薩摩弁のリズム”が役作りに助かった!
 ミュージシャンでいらっしゃいますからね
「そうですね、外からも中からも五代さんという人物を作ってく上で、
いろんな人との出会いで教えていただいて。
五代友厚さんの子孫の方々にもお会いして色々教えていただいたりとか、
歴史の博士にも」

大阪証券取引所の前にある五代友厚像の写真)
「僕はここに何回行ったかわからないくらい。夜な夜な一人で行ったり。
最初は挨拶に。銅像立ってるんだなみたいな感じで見に行くじゃないですか、そりゃ。
役作りも兼ねて、調べるために。
で、北浜のああいうところとか歩いたりしたんですけど、
だんだん生活の中に銅像の存在がすごく大きくなってって、
後半、なんか話しかける、とまではいかないんですけどね、
それもだいぶあぶない人になっちゃうけど、
心の中で話しかけてる感覚で見上げて、
”今日、これで良かったのかな”みたいな」

・ある意味大阪の街をつくった人ですからね
「そうですね、近代大阪の父って言われてますからね」

・薩摩言葉の話が出ましたけど、
途中から関西弁も入ってくるじゃないですか
これはどうでしたか
「僕はやっぱり関西弁の方が苦手でしたね。
薩摩のほうがすぐ入ってきたし、何か自分にしっくり来たんですけど、
大阪に住んでるのに、大阪の言葉がどうにもこう…
そこはやっぱりほんとにリハーサルであったり言葉の稽古だったり、
自分で先生にテープで吹き込んでもらったのを聞いて練習したりとか、
あらゆることをやって本番に臨んだって感じでしたね」

あさ役の波瑠さんからのメッセージ)
「五代さまは大事な局面に現れて、
本当に胸にぐさっと刺さる言葉を必ず残していく方。
一番最初にロケでご一緒した米会所でのシーンは、
(私は)京ことばにいっぱいいっぱいで、
五代さまは五代さまで薩摩言葉でいっぱいいっぱいで。
私の台詞につられてディーンさんがぴっくりや、っていうところを
びっくりぽん、っていうところがあって、
すごいチャーミングな方だなと思って、印象に残ってますね。
五代さんっていう役はいつもむつかしいことを話してるじゃないですか、
だからディーンさんの柔らかさや笑顔だとか、愛嬌がプラスされて
五代友厚という人はより魅力的になってるんじゃないかと思いました」

・ディーンさんの波瑠さん評
「人見知りをなさる方だと聞いていたけれど、全然。
もう毎回とても楽しく現場で過ごさせていただいて。
最後の方なんか待ち時間に一緒にビートボックスの練習をしたり」
と実演。上手くてびっくり!何でも出来るんですね。
わっと湧くギャラリーの様子をすかさずカメラが捉える。

視聴者からのメール紹介)
「人間味あふれる五代さまを熱演してくださり、
大阪人一同を代表して感謝状を贈りたい気持ちです
歴史に埋もれてしまっていた偉人を蘇らせてくださいました
国境を超えて活躍されるボーダレスなディーンさんと
五代さんが見事にシンクロしているのにも説得力がありますね」
「ディーンさん演じる五代友厚を通して日本の歴史をもっと知りたくなり、
本など買って勉強中です。これからも応援しています」

・五代さんのことを知りたくなる人も多いでしょうね
「僕も本当にその一人ですね。
脚本も素晴らしかったし、演出も素晴らしかったし。
チームが凄かったですね、一丸となって」

・地元大阪で大人気
 初対面でいきなりスマホのラインのIDを聞かれたというエピソードも
「嫌な思いはしてないんですよ。大阪はすごく合ってたんですよ。
楽しかった。仕事を続けられるんだったら住みたいと思ったくらい」

<プロフィール>
1980年福島県の生まれ
子ども時代は釣りをしたり山を駆けまわったり
福島の大自然の中で育つ
・赤ちゃん時代、幼児時代の可愛い写真
お父様が仕事の関係で海外出張が多く、
自宅で英語や中国語を教わった

・何歳くらいの頃から?
「覚えてないですね。メインは英語だったんですけど、
中国語はほんのちょっと。、たとえばお風呂はいって
じゃあ十数えたら上がっていいよ、っていうような時
中国語だったりとか」

・中学高校時代は友達とバンドを組み、音楽活動に励む
この頃の夢はミュージシャンになること

・中学時代の写真(おそらく学生証)
 すでに今と変わらぬ端正な顔立ち
「だいぶ老けてますね」

・どんな音楽をやってたんですか
「ロックとかヘビーメタルですね」

・バンドではボーカル?
「いえ、ギターひいてました。
ミュージシャンっていうか、作曲が好きだったんですね」

・高校卒業後、アメリカへ留学
 これまでと印象の違うロングヘアのスナップショット
「だいぶ画質が悪いですけどお許しください」

・何故留学してアメリカに?
「花粉症がひどくて、ならないところに行きたいと思って。
まあ、それもあるし、もちろん勉強したいこともあって。
父親がITの仕事をずっとしていて、
ちっちゃい頃から家でもモデムとか使ってた家だったんで、
興味が自然とITの方にあったんですね。
それでシアトルがやっぱり、当時ね、
ビル・ゲイツだったりAdobe(アドビ)だったり
そういう会社があったりして、
まあ西海岸、具体的にそのロケーション決めたのは、
そういうちゃんとした勉強をする志を持っていったんですけど、
原点というか、一番大きい動機は花粉症ですね」

・アメリカの大学のIT学科で学んだディーンさんは
今度はIT関連の仕事に着く夢を持つ。
しかしアメリカでの就職がかなわず、
卒業後、2003年、アジア放浪の旅に出る
「そうですね、就職かなわず、っていうか
ビザがすごくむつかしい時期だったんですよ。911で。
どっちかっていうとビザプログレムでしたね。
ビザの方の理由でアメリカにいるのがちょっとむつかしかったんで、
そこに時間と労力を使うくらいだったら次行こうと思って
ネクストレベルに行っちゃいました」

・何故アジア放浪に?
「色々サインはあったんですけど、
学校の教師が”21世紀はアジアの時代”と言ってたのも印象的だったし、
アメリカで出会ったアジアコミュニティのそれぞれの友達たちの
バックグラウンドというか、
いろんな社会体制があるわけじゃないですか、
そういう中でみんなどういうふうに生活してるのかな、とか
アメリカとか資本主義のマナーで生きてる人たちじゃない。
でも同じ人間、って、そこに興味を持ってたのもありますし、
自分もアジア人だし、アジアのことをそれまでほとんど知らなかった。
だから興味があった、って感じですかね」

<中華圏での俳優デビュー>
・香港滞在中の2003年 大きな転機が。
DJのイベントに参加したところ
偶然現地の雑誌編集者の目にとまり、モデルデビューすることに
2005年には俳優デビュー。映画「八月の物語」主演に抜擢

「モデルをやってた期間はそこまで長くなかったんですけど、
すごく短期集中でやらせてもらって、
その中でやっぱり演技が必要な仕事って出て来るじゃないですか、
コマーシャルだったりミュージックビデオだったり
そういう中で自分のパッションが見つかったって言うんですかね、
俳優って、演技ってすごい面白いなと思うようになって、
オーディションに呼んでもらって、
それで最初の俳優の仕事が決まった感じですね」

・その後台湾の人気ドラマに立て続けに出演し、
一躍アジアで大ブレイク。その後アメリカのドラマにも進出。
台湾ドラマとアメリカドラマ二本続けてご覧ください
ドラマ映像)
■台湾「笑うハナに恋きたる」(2008)
■米「荒野のピンカートン探偵社」(2014)

・さらに2013年実際に起きた話をベースにした作品
「I am ICHIHASHI〜逮捕されるまで」で主演だけでなく監督にも挑戦
世界を舞台に表現の幅を広げ活躍

・お小さい頃、お父さんがおうちで英語と中国語をしゃべってたらしたのが、
 そのまま中国語と英語しゃべってらっしゃるんですものね。
 不思議な赤い糸みたいな
「でもまあもちろん家庭で自分なりに練習とか勉強してきたのもあるんですけど、
父親が中国の生まれだっていうのも関係してるのかなって思いますね」

・放浪の旅の中で出会いがあって、たまたま俳優になった
カメラの前に立つことにはじらいは?
「ああ、ありました。
どっちかっていうと苦手だったんで、人の前に出るのが。
でもやっぱり音楽が好きだったから。
音楽やってるっていうので、ひとつの、こうまよわせる(*ここよく聞き取れず)っていうのか、
それがモデルにつながってって。
モデルは最初はホントに生きてくためにお金を貰える、
くれるんだったらやるよ、ってかたちで始めて、
旅行したり生活してると必要なんで。
だからずっとモデルやるつもりもなかったんですけど、
俳優、演技ってものに出会えたのがすごく大きかったですね」

・でもいきなり主演で、言葉もまだそんなに…
「広東語はやっぱり難しかったですね
北京語より広東語の方が難しいですね」

・監督は何故ディーンさんを主演に?
「やっぱり物事って文脈ってあると思うんですよ。
モデルをやってた時にもいろんな人に支えてもらって、
いろんな経験させてもらったんですね。
香港だけじゃなくて中国大陸だったり、
東南アジアとか、ヨーロッパの方の仕事だったり。
で、そういう積み重ねでExposure(エクスポージャー)が増えると、
その分出会いもまた変わって来るっていうんですかね」

ここで高畑さんが「すみません、エクスポージャーって?」と質問。
ちょっと言葉を探して「露出、ですね」
説明にまず英語が出て来て周りが「??」となる感じ、まさにリアル五代さま!

「僕のモデルの仕事ももちろん見てくれての、最終的な判断だと思うんですよ。
だから決して、例えばじゃあ自分が学生の時にIT勉強してましたとか、
まったく関係ないように見えるけど、実はすごく今の自分の人生観、
ライフワークスタイルにも影響があるし。
モデルやってたことっていうのが俳優始める時の後押しにもなったと思うんですね。
もちろん俳優というのは演技の技術がまずあってだと思うんで、
僕は学校とか行って演技ってものを勉強する機会がなかったので。
モデルっていう立場で大勢に囲まれて演技をするっていう経験を
たくさんさせてもらったのが、スタートアップとしてはそうですね。
だから全部つながってるんですよね」

・監督からもいろんなことを、演技について学んで
「ヤンヤン(ヤンヤン・マク監督)に教えてもらったのは
”俳優”としてどうフィルムメーキングのプロセスにかかわるかじゃなくて、
もちろんそれもなんですけど、”フィルムメーカー”として、
いちフィルムメーカーとしてどう現場とかかわっていくか
という感じで導いてくれたんですね。
だから彼女のクルーっていうのはホントに家族みたいな感じで、
みんなでいつも一緒にいて、
プリプロ(撮影前の準備作業)からポスプロ(撮影後の作業)まで
一通り全部流れを突き合わせていただいたっていうか、
ホントにみんなそういう自分の経験とか、
知ってることを惜しみなく教えてくれる人たちだったんで、
後々日本で一番最初に監督やる時にも、
あれももともと監督やる予定ではなかったんですけど、
それまでの俳優の経験というものがあったから、
クルーの人たちに、それぞれプロフェッショナルに教えてもらって、
なんとか形になったっていう。
すごくトラウマになるような大変な作業だったんで、主演監督というのが」

・そのあとまた台湾にも行かれて
「台湾は香港に行ったのとはまったく違くて、
香港でやった作品っていうものが台湾でも目に留まったかたちで、、
台湾のTVドラマのプロデューサーの、アンジー・チャイって方なんですけど、
台湾で連続ドラマに出演しないかっていうオファーをいただいて
それで台湾の方に拠点を移してTVドラマを撮るようになったんですね」

・いろんな人のつながりで、ご縁が広がって
台湾で出会った友人から中国武術を教えてもらって
それがまた演技の幅をさらに広げてるとか
「そうですね、武術もそうだし、アクション全体っていうんですかね、
やる側も受けとしてリアクションをどうやるかとか、
どういうタイミングで全体が動くかとか、
ワイヤー・アクションの練習とか乗馬とか
そういう一通りのことすべて台湾で経験出来たっていうのが、
その後アメリカでも、馬に乗ったり、当たり前じゃないですか
役者でやっぱり馬に乗るのが当然のことなので
中華圏とか北米だったりすると、
馬乗れないと仕事の幅がだいぶアレ(狭まる)ですよね。
アクションもそうだし、特に中華圏では中華武術は生活の一部っていうか、
やっぱり必要だったんで
自分も好きだったし、観て綺麗だなーと思って、武器をコレクション…
すごい持ってるんですけど、武器のコレクトもしてるし、
それの使い方っていう意味では、友達がアクション監督やるような人たちだったり、
アクション俳優だったりとか、そういうスタントマンとか周りにたくさん居たんで
皆で遊ぶっていうと練習するっていう。で、ご飯食べに行って、みたいな」

・実際に中国武術をやってらっしゃる映像があります
中国武術の立ち回り映像)
*広場のような場所で、剣を手にして舞踊のように華麗な決めポーズの連続

(映像を見ながら)「あ、台北ですね、これは。ちょっと編集入ってるやつですね。
恥ずかしいですね」

・国際的に活躍する俳優には、こういうアクションが大事となってくるんですね
「そうですね。日本で忍者のアクション映画をやった時も、
日本の殺陣って僕は経験なかったんですけど、
違うスタイルとはいえ中華圏で練習して来たベースがあったんで、
対応することが出来たと思うんですね。
で、やっぱりいい意味で異質なものになるんですよ、必ず。
僕が普段やるのは、片手で剣を振り回す、
両方で持ったら二本持つようなスタイルなのに、
日本だとこう(一本の刀を両手で持つ)じゃないですか
だからやっぱりやってるうちにどんどんクセが出て、
殺陣なんだけとちょっと違うって感じになるんですよね。
人によってはそれは邪道、ってなるかもしれないんですけど
それをポジティブに受け止めてくれる方に恵まれたというか、
それを生かすような形で使ってもらえたんで」

・キレがいいですね。お合いになってらっしゃる
「ありがとうございます」

質問メッセージ)
・双子のパパさんでもあるディーンさんですが、
子育てで自分なりのモットーや信念はありますか
「うーん、まだ生まれたばっかりでちょっと…
でもやさしさ、って言うんですか、困った人がいたら
手をさしのべるような人間になってもらいたいなって思いますね」

・仕事の関係で台湾に住んでいた時、
2006年に現地で放送されたTVドラマでディーンさんを知り、
それから、台湾で外国人俳優として頑張っているディーンさんを応援していました
そして現在の活躍ぶり、本当に嬉しいです。
これからも日本で様々な役柄を通じて違ったディーンさんを見せてください
「頑張りまーす」
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