mixiユーザー(id:1040600)

2006年06月17日02:19

145 view

●身辺雑記(76)/■人生と文学と政治 (4)

■人生と文学と政治 (4)

 ― 人生派と芸術派 ―



 ●まだ、回り道は続きそうである。

  そのため、先回りして、どういうところに結論をもっていこうと
  しているか、そのことを書いておく。

  「人生と文学と政治」というタイトルで、私は自分が考えてきたこと、
  頭をぶつけてきたことを書こうとしたのだ。

  つまり、生きようとして、うまく生きられず、どうしたものかと
  「本」を読む。別に、それは「本」でなくてもよく、「映画」でも
  「ドラマ」でも、「マンガ」でもいい。

  「人生について書かれたもの」を私は読む。そして、そこに
  生きるための「何かの手がかり」、それを求めたのだ。


  (したがって、「本」には、「文学」以外に、「人生について」
   直接述べられた「思想」や「哲学」や「歴史」や「記録」や
   「科学」や、そのほか諸々の領域の「本」が含まれることになる)



 ●「人生と文学と政治」というタイトルに含まれている「文学」とは、
  この「人生について書かれたもの」を「本」に代表させ、そして、
  その「本」をさらに「文学」というもので代表させようとしたので
  あって、「本」や「映画」や「ドラマ」や「マンガ」など、
  「人生について書かれたもの」が、仮に「文学」という名のもとに、
  集約的に代表されている、と思ってもらえればいい。


  「人生について書かれたもの」としての「本」や「映画」や
  「ドラマ」や「マンガ」は、それらはそれぞれ「作品」であり、
  「作品」はそれぞれ「作品価値」を有しているだろう。

  もし、「作品」の価値に優劣があるとすれば、「作品価値」は
  何によって決まるのだろうか。

  「作品」を「文学」に代表させれば、「文学価値」は何によって
  決まるのか、ということである。


 ●このことを「作品」の側からでなく、その受け手である「読者」の
  側からながめれば、読者が「作品」に何を求めるか、という話になる。

  そして、それは「十人十色」ということになり、「需要のあるところに
  作品あり」、ということで、一義的に「作品」の優劣は語れない、
  ということになるのかもしれないが、しかし、私にとっては
  「読者」は私ひとりであり、私が「作品」に求めるもの、それが
  すべてである。

  頭をぶつけた私に、「役に立つ」実用的な「本」でなければ
  私にとっての「作品価値」はないのである。


 ●このことを、こんどは「作品」の作り手、「作者」の側から
  考えてみよう。「作者」はなぜ「作品」を作るのか。「作品」を
  作ることによって、「作者」はどんな解決を得ようとしたのか。

  こう考えると、「作者」と「読者」の出会いとは、ともに、
  ある感受性を共有するときに、そこに「作品価値」というものが
  発生してくる、ということに気づくはずだ。

  作り手と受け手の間に、「共感」するものがあって、はじめて
  「価値」が発生する。


 ●これを、「文学」という代表語で語れば、「文学価値」は「作者」と
  「読者」との間に、どのような「共感関係」を形成するか、
  そのことによって「文学価値」は決定される、ということになる
  だろう。

  私は、「作品」を、アプリオリに「人生について書かれたもの」と
  定義したが、本当は、それは、私が「作品」にそのようなもの
  を期待しているだけであって、本来は、「作品」に対して
  「人生について書かれたもの」以外のものを、求める人も当然に
  いるわけである。


 ●しかし、私は「作品」を客観的に評価し、そして「作品論」を
  述べたいのではない。

  私にとって、何が「価値」あったか、そのことを述べるにすぎない。

  何が「価値」があり、何が「価値」がないか、このことについて
  「文学」では幸運なことに、作り手の側で「文学論争」というのを
  やっていて、これが受け手の側でも、大変に役に立つのである。

  (「批評家」という者も登場し、「論争」は広く「批評」の形をとる)



  「文学」に、作り手の「作者」が何を求めているか。
  その、「作者」の求めるものが、「読者」の求めるものと果たして
  一致するか。
  このことを巡って、「文学論争」は行われている。


  時代とともに、人も、考え方も、人々の思いも、変わるのである。
  その変化の中で、「文学論争」は起きるのである。


 ●どこかで、平野謙「昭和文学の可能性」のことを書いた。

  あれは、広津和郎の『散文精神について』という講演で
  「みだりに悲観もせず、楽観もせず」と広津が語ったその言葉に
  関して、それがどのような文脈から発せられたか、そのこと関係して
  この言葉を引用したと思う。

  芥川龍之介と広津和郎と宇野浩二をめぐって、*宇野が精神の異常を
  きたしたとき、
  つまり、広津の小説「あの時代」に出てくるような状況下での
  話であり、そのときに、*芥川の発言があり、*広津の感慨があった。
  

  それは、人生派と芸術派、また、広津と芥川との感じ方の相違として
  出てくる。


  そして、この「本」、平野謙「昭和文学の可能性」は、芥川が
  まだ生きていた昭和の初頭から、そして、その芥川の死が何を
  意味しているかを問うあたりから、昭和の「文学論争史」としての
  側面をもちつつ、「昭和文学」が成しえなかったものを含め、
  「昭和文学の可能性」に光を与えた「本」である。



 ●これも、ついでに言っておけば、文学者の「不自然な死」というのも
  私の、このような関心から書いているもので、実人生と文学の
  関係とか、文学的な価値とは何か、ということをめぐって
  その資料として、文学者の「自死」を取り上げたものである。


  足早に残りのことも、かいつまんで言えば、「文学価値」は
  はじめは、「人生と文学」の間で論争となり、ついで、
  「文学と政治」の間に論争がおこり、私は、それらの文学論争で
  争われたことをなぞるようにして、頭をぶつけながら歩いてきた
  ような気がしているのだ。

  そんなことを、「人生と文学と政治」に書いていくつもりである。

  次回も、おそらく、そのような「文学論争史」を、思うことや
  考えること、「思想」や「哲学」や「しぐさ」や「ことば」などにも
  寄り道しながら、「系統発生」のようにしてたどってきた道を
  遠回りして、書くことになるだろうと思う。



 
■案内
  ・日記/「Home」案内


 
■参照
  ・人生と文学と政治(1)
  ・人生と文学と政治(2)
  ・人生と文学と政治(3)
  ・人生と文学と政治(4)
  ・人生と文学と政治(5)
  ・人生と文学と政治(6)
  ・人生と文学と政治(7)
  ・人生と文学と政治(8)
  ・人生と文学と政治(9)
  ・人生と文学と政治(10)
  ・人生と文学と政治(11)



■参考
  ・「人生と文学と政治」資料


0 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する