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2006年02月21日23:53

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●寄り道ついで (56)/■「展望」

■「世界」

 ・平野謙「昭和文学の可能性」は、雑誌「世界」に昭和46年6月から
  9回にわたって連載され、それに若干の補筆をして昭和47年に
  岩波新書として刊行された。私は昭和53年にこの本に出会い、
  11月12日に読了し、昭和58年6月30日に再読・読了している。

  昭和57年暮れに母がなくなり、まさにこのころ、私にも「中折れ」の
  事件・できごとがいっぱいあった。




 ・私は岩波書店の出版物には、新書や文庫でお世話になったが、
  学生時代から岩波の出す雑誌「世界」は手が伸びなかった。


  もっぱら筑摩書房の雑誌「展望」の読者で、「世界」は何か
  特集で特別の記事がない限り、読むことはなかった。
  いまも、もし「展望」が廃刊にならずに出版されていたら、
  私はずっと購読していたにちがいない。


 ・当時、学生でも「世界」派と「展望」派がいた。「世界」は
  その名のとおり、現在や世界を、時事的・社会的・政治的に
  とらえ編集されていた。

  それに対して、「展望」はどちらかといえば、通時的・個人的・
  文学的に編集されているように私には思え、それが私には
  合った。


 ・昨日は、柄にもなく「日本の問題」などと口走っているが、
  本来、そんなことは私には似合わないし柄でもない。
  私は、たかだか自分の目の届く範囲、自分の影響の及ぶ範囲、
  そして、私自身が生きていくことに関心があるのであって、
  「世界」や「日本」や「社会」や「歴史」からものを考える
  タイプではない。




 ・ただ、高見順や土橋治重、広津和郎や平野謙、彼らの文章を通じて、
  彼らの生きていた時代やその中で彼らの考えたこと、それらに
  自分を重ね合わせることで、時代や歴史、社会や世界が見えてくるに
  すぎない。

  はじめに、自分を離れてそれらを見ることはない。


 ・この本には、伊藤整の命名による「調和型」「破滅型」という
  作家あるいは近代日本人の発想のタイプわけの話も出てくる。

  志賀直哉が「調和型」、太宰治が「破滅型」の代表例として
  あげられていて、平野謙は、広津の「悲観もせず、楽観もせず」を
  まねて、自分としては近年「破滅もせず、調和もせず」という生き方を
  希がうようになった、と書いている。


 ・そして、広津や平野のそうした態度や生き方というのは、
  極端を避けてその中庸を採るという消極的なものではない。

  「一方の極端まで達したところで何も偉いことはない。
   同時に両極端に触れて、その間を満たさなければ」
  というパスカルの「パンセ」の一節にあるような積極的な態度と
  生き方をさしている。


  「ヤバイ人」や「自分の弱さ」、「中庸」や「保身」などについて
  だらだらと書いてきたのも、みな、このことへつながっていく。
  


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