■人生と文学と政治 (4)
― 人生派と芸術派 ―
●まだ、回り道は続きそうである。
そのため、先回りして、どういうところに結論をもっていこうと
しているか、そのことを書いておく。
「人生と文学と政治」というタイトルで、私は自分が考えてきたこと、
頭をぶつけてきたことを書こうとしたのだ。
つまり、生きようとして、うまく生きられず、どうしたものかと
「本」を読む。別に、それは「本」でなくてもよく、「映画」でも
「ドラマ」でも、「マンガ」でもいい。
「人生について書かれたもの」を私は読む。そして、そこに
生きるための「何かの手がかり」、それを求めたのだ。
(したがって、「本」には、「文学」以外に、「人生について」
直接述べられた「思想」や「哲学」や「歴史」や「記録」や
「科学」や、そのほか諸々の領域の「本」が含まれることになる)
●「人生と文学と政治」というタイトルに含まれている「文学」とは、
この「人生について書かれたもの」を「本」に代表させ、そして、
その「本」をさらに「文学」というもので代表させようとしたので
あって、「本」や「映画」や「ドラマ」や「マンガ」など、
「人生について書かれたもの」が、仮に「文学」という名のもとに、
集約的に代表されている、と思ってもらえればいい。
「人生について書かれたもの」としての「本」や「映画」や
「ドラマ」や「マンガ」は、それらはそれぞれ「作品」であり、
「作品」はそれぞれ「作品価値」を有しているだろう。
もし、「作品」の価値に優劣があるとすれば、「作品価値」は
何によって決まるのだろうか。
「作品」を「文学」に代表させれば、「文学価値」は何によって
決まるのか、ということである。
●このことを「作品」の側からでなく、その受け手である「読者」の
側からながめれば、読者が「作品」に何を求めるか、という話になる。
そして、それは「十人十色」ということになり、「需要のあるところに
作品あり」、ということで、一義的に「作品」の優劣は語れない、
ということになるのかもしれないが、しかし、私にとっては
「読者」は私ひとりであり、私が「作品」に求めるもの、それが
すべてである。
頭をぶつけた私に、「役に立つ」実用的な「本」でなければ
私にとっての「作品価値」はないのである。
●このことを、こんどは「作品」の作り手、「作者」の側から
考えてみよう。「作者」はなぜ「作品」を作るのか。「作品」を
作ることによって、「作者」はどんな解決を得ようとしたのか。
こう考えると、「作者」と「読者」の出会いとは、ともに、
ある感受性を共有するときに、そこに「作品価値」というものが
発生してくる、ということに気づくはずだ。
作り手と受け手の間に、「共感」するものがあって、はじめて
「価値」が発生する。
●これを、「文学」という代表語で語れば、「文学価値」は「作者」と
「読者」との間に、どのような「共感関係」を形成するか、
そのことによって「文学価値」は決定される、ということになる
だろう。
私は、「作品」を、アプリオリに「人生について書かれたもの」と
定義したが、本当は、それは、私が「作品」にそのようなもの
を期待しているだけであって、本来は、「作品」に対して
「人生について書かれたもの」以外のものを、求める人も当然に
いるわけである。
●しかし、私は「作品」を客観的に評価し、そして「作品論」を
述べたいのではない。
私にとって、何が「価値」あったか、そのことを述べるにすぎない。
何が「価値」があり、何が「価値」がないか、このことについて
「文学」では幸運なことに、作り手の側で「文学論争」というのを
やっていて、これが受け手の側でも、大変に役に立つのである。
(「批評家」という者も登場し、「論争」は広く「批評」の形をとる)
「文学」に、作り手の「作者」が何を求めているか。
その、「作者」の求めるものが、「読者」の求めるものと果たして
一致するか。
このことを巡って、「文学論争」は行われている。
時代とともに、人も、考え方も、人々の思いも、変わるのである。
その変化の中で、「文学論争」は起きるのである。
●どこかで、
平野謙「昭和文学の可能性」のことを書いた。
あれは、広津和郎の『散文精神について』という講演で
「みだりに悲観もせず、楽観もせず」と広津が語ったその言葉に
関して、それがどのような文脈から発せられたか、そのこと関係して
この言葉を引用したと思う。
芥川龍之介と広津和郎と宇野浩二をめぐって、
*宇野が精神の異常を
きたしたとき、
つまり、広津の小説「あの時代」に出てくるような状況下での
話であり、そのときに、
*芥川の発言があり、
*広津の感慨があった。
それは、
人生派と芸術派、また、広津と芥川との感じ方の相違として
出てくる。
そして、この「本」、
平野謙「昭和文学の可能性」は、芥川が
まだ生きていた昭和の初頭から、そして、その芥川の死が何を
意味しているかを問うあたりから、昭和の「文学論争史」としての
側面をもちつつ、「昭和文学」が成しえなかったものを含め、
「昭和文学の可能性」に光を与えた「本」である。
●これも、ついでに言っておけば、
文学者の「不自然な死」というのも
私の、このような関心から書いているもので、実人生と文学の
関係とか、文学的な価値とは何か、ということをめぐって
その資料として、文学者の「自死」を取り上げたものである。
足早に残りのことも、かいつまんで言えば、「文学価値」は
はじめは、「人生と文学」の間で論争となり、ついで、
「文学と政治」の間に論争がおこり、私は、それらの文学論争で
争われたことをなぞるようにして、頭をぶつけながら歩いてきた
ような気がしているのだ。
そんなことを、「人生と文学と政治」に書いていくつもりである。
次回も、おそらく、そのような「文学論争史」を、思うことや
考えること、「思想」や「哲学」や「しぐさ」や「ことば」などにも
寄り道しながら、「系統発生」のようにしてたどってきた道を
遠回りして、書くことになるだろうと思う。
■案内
・
日記/「Home」案内
■参照
・
人生と文学と政治(1)
・
人生と文学と政治(2)
・
人生と文学と政治(3)
・
人生と文学と政治(4)
・
人生と文学と政治(5)
・
人生と文学と政治(6)
・
人生と文学と政治(7)
・
人生と文学と政治(8)
・
人生と文学と政治(9)
・
人生と文学と政治(10)
・
人生と文学と政治(11)
■参考
・
「人生と文学と政治」資料
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