『
ターナー、光に愛を求めて』
画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの半生を追った人間ドラマ。
モデルとなったターナー自身や演じたティモシー・スポールへの関心も鑑賞動機の一つだが、何よりマイク・リー監督というのが決め手。
マイク・リーといえば脚本を書かない特殊な演出法や、名もなき一般人を主役にすることが多かったのに今回は飛び切りの有名人。
しかし、そこはリー。マイペースで変人扱いされても自我を貫き通す“分身”を描き出す。
今回も決まった脚本はなかったそうだが、そうはいっても有名人ゆえ“決まった歴史”は存在する。
しかし、歴史に残らない<余白>も存在している。そこにこそリーらしさを感じた。
展覧会などでターナーの絵は目にしていたものの、彼の人となりについては全くの無知。
ワケありの家庭環境や愛した女性などについて事細かく綴られる。
油絵の製作過程は美術愛好家ならば身を乗り出して見入るだろうし、当時の英国の風景や風俗がよく表されていて美術には興味がなくとも歴史ものが好きな人なら十分楽しめよう。
一枚の絵画を思わせる冒頭シーンからもわかるように、映像を見せることに比重が置かれている。
ターナーは実際の風景から絵画にしたが、逆にリー監督はターナーの絵画から実写映像に再現しているのが面白い。
キャンバスではなくスクリーンに絵画を描いて鑑賞させているみたい。
撮影監督ディック・ポープの功績は大きい。
余りにじっくりと見せるのは退屈と映るか、芸術的と映るか意見が分かれるかもしれない、…少なくとも万人向けではないだろう。
当時のロイヤル・アカデミーの内情が描かれるのは興味深い。
ライバル心むき出しで傲慢な振る舞いも、芸術家だから世間の常識から多少はずれているのは納得できる。
(それでも当事者にはたまったものではないだろうが…)
副題にもあるようにターナーにとっては光こそが自身の芸術を語る上での生命線だったろう。
自然光を求めて戸外を歩く様子は希望を求める姿そのもの。
外が希望となる光ならば、逆はどこなのかを推察してみる。
そこが<余白>なのじゃないか?
押しなべて芸術家の最後は似た境地になるのか、ゲーテや芭蕉などとどこか重なる気がした。
ティモシー・スポールはもちろん熱演だが、家政婦役のドロシー・アトキンソンの好演が光る。
いつの日かターナーの作品をテート・ブリテンやナショナル・ギャラリーでまとめて鑑賞してみたいものだ。
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