『
リアリティのダンス』
『どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う』 とは、かの小津安二郎監督の名言だが、それは芸術家ならば概ね当てはまるのではないか?
アレハンドロ・ホドロフスキーは観客にわかるように演出するのではなく、自分に寄り添うように自由に作っている。
だが、それこそがファン(信者)が望む姿であろう。
実を言うと初ホドロフスキー鑑賞である。
横尾忠則が絶賛していることもあり、どういう作風なのかいささか心配もしていたが(失礼)、なるほど横尾が好きそうな世界に思える。
カラフルというよりも毒々しいと言った方が似つかわしいか。
映画は監督自身の少年時代の思い出を(おそらく)真っ正直に表現している。
ウクライナから両親と軍事政権下のチリに移り住み、高圧的な共産党主義者である父親と息子アレハンドロを亡くなった父の生まれ変わりと信じる
“フェリーニ映画を思わせる”母。
チリでは目立つ容姿から学校ではいじめに合い…と、ありがちな尺度では測れない環境で育ったアレハンドロ・ホドロフスキー。
既存の表現にならされていると奇異に映るかもしれないが、アレハンドロにとっては<極めて自然>な感覚なのかもしれない。
現実の少年時代の自分と現在の監督自身が同時に登場していたり、母親役の女優がオペラ歌手だからとはいえオペラ口調で会話するとか…もう自由奔放である。
1995年に息子を亡くしてからアートを作る意味を考えていたというアレハンドロ曰く、「これは人々の魂を癒す映画であり、映画の中で家族を再生することで、私の魂を癒す映画でもあった」というが、確かに
ここで描かれる父親はまるで磔刑に処せられたイエス・キリストのようである。
怪とか妖という文字が脳裏をよぎり、シュールなリアルが眼前に広がる。
いや、すごいものを見せられた気がする。(ゆえに退出する人がいたのも分かる。)
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