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2019年07月18日15:15

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深い記憶の底のエロ本、その12

 エロ本についての懐かしい記述をしていると、つくづく、いろいろなマニアがいろいろなことをしていたのだなあ、と、そう思わされる。それがいつの頃からか、人は変わるが内容は同じというマンネリになってしまったのである。そういえば、サロンはどこに向かっているのか、と、そう尋ねて来る人がある。サロンは二つのことを目指しているのだ。その一つは、昨日と同じ今日にはしないということなのだ。緊縛を、と、しばしば、そう言われるが、サロンはそのイベントをいろいろなコンセプトでやっては失敗している。では、ただの緊縛ショーでいいし、緊縛講習会でいいのではないか、と、そう思う人は少なくないだろう。それは嫌なのだ。一年前も、十年前も、緊縛は同じ、ただ、縛られる人が違っているだけ、と、それが嫌なのだ。緊縛講習会も同じなのだ。そこでやる緊縛は一年前も今日も、そして、一年後もたいして違わない。毎月のように新しい緊縛技を開発することも出来ないし、毎月のように新しい緊縛の道具を見つけることも出来ないのだ。同じだからいい、と、そう言う人もあるだろうが、サロンはそれをしたくないのだ。
 数十年前のエロ本編集者たちは、常に新しい本を作っていた。そんなところにお客はいないだろうと思われるほどマイナーな場所に落ち込んでしまう人もいた。それをやったら終わりだろうという法律的にアウトなところに行く人もいた。あまりに新し過ぎて、その本がやろうとしていることが分からないような本を作ってしまう人もいた。人形だけで一冊のエロ雑誌を作ろうとしていた人もいた。皆、バカだった。たくさんの企画書を抱え、これはすでに出ているよ、と、言われて否定されていた。すでにあるものは出してはいけないように勘違いしていた人たちがいたのだ。
 筆者はそんな進取の気性が好きなのだ。新しければ、バカでいい、と、そう思っているのだ。ゆえに、サロンは同じことを繰り返すだけの緊縛イベントはやりたくないし、実際、やっていないのだ。
 そして、サロンは、もう一つ。残せないことをしたくないのだ。緊縛講習会は残せないのだ。残せば、毎回同じで、たいした違いも工夫もないことが誰の目にも明らかとなってしまうからなのだ。緊縛とはその程度のものだからなのだ。
 残すということは作るということなのだ。たかが皆でバーベキューに行くのさえ、サロンは、映画やCМ映像のパロディ映像を作ったりしていた。たかがバーベキューでさえ作品にしたいのがサロンなのだ。
 それはサロンはお客さんの集団ではなく、表現者の集団でありたいからなのだ。鹿鳴館がはじめてサイトに登場した二十数年前、そのときのコンセプトは「アダルト産業、いつまでお客さんでいるつもりですか」というものだった。そのコンセプトは二十数年後の今もそのままなのだ。
 ところが、最近のエロ業界は、ますます、お客さん傾向が強くなっている。作るよろこびのないところのエロは、幼稚なエロでしかないのだ。幼稚なエロは最初こそ楽しいかもしれないが、すぐに飽きてしまうのだ。それはそうなのだ。十年前も一年前も、そして、今日も、一年後も同じなら、退屈してしまうものなのだから。
 新しいこと、そして、それが残せること。サロンは、そんなエロを模索したいのだ。そうしなければ、もう、エロは、それそのものが滅びてしまうかもしれないのだから。
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