mixiユーザー(id:2566286)

2018年09月23日23:42

194 view

人間

『人間』
 乙羽信子の野性的且つ胎児的プリミティフのエロスだけではなく、船員全員に、新藤兼人が当時に掲げる開放的な性の姿が表されている。殿山泰司の家長ぶり、ミラクルを信じる。『三文役者』で彼が言う佐藤ケーと山本ケー、そのふたりもまたギラギラしている。殿山船長が見る山本圭の足、カニバリズムな肉欲と贖罪が交じり合い、ギラつく大きな眼の佐藤慶は欲動をあるがままに突き進む。愛がギラギラしている。

ワカマツがシンドーのファンであると言ったこと、それはオセジかホントか分からなかったけれど、彼が木下恵介のファンであるとか溝口健二のファンであるとか、或いはコクトーのファンであるとか、そんなこと言っていたとしても、そのどれもが、オセジではなくホントにありえるぐらいに、様々な要素を溶け込ませながら映画的マジックリアリズムを築き上げていること明らかにワカマツのコウジにカンジられるのである、いや〜んうっふん。そして『人間』を観るとき、ワカマツがシンドーのファンであると言ったこと更なる信ぴょう性を持ち得てくるのでもある。なにより、あのテンポのよいモンタージュに、その軽妙さ、ふたりの類似性を感じる。また、袋から現れいでる山本圭と、袋のした地下に潜っていた谷川俊之が現れいでる姿も、ピタリとふたりの類似性を感じてしまう、いや〜んうふんあは〜ん。Aha! そうである。『人間』が業を掘り下げるとき、歴史をも現れ出でさせる。その現出もまた似ているのである。飯を喰うこと、とても大事である。その信ぴょう性、明らかである。戦中戦後に生き抜くこと、空腹であるがゆえに、そのパーパスを持ち得る。人間は漂流のなかで生きている。そして生き抜く。終盤にはためく国家のもと、打算が生まれ、欲望が生まれ、信じようとすることが生まれ、国旗をも超えた本質性、愛が歴史を生き抜くヒトに生まれる。新藤兼人もまた若松孝二と同じように、エロスを表しているのである。業は愛にある。肉欲においても精神においても愛にある。ワカマツほどシンドーはシニカルには表さず、そこにはジェネレーションギャップがあるのかもしれないが、人と人との間に生まれる愛というものを頑なに信じている姿勢がふたりには共通して在る。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年09月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

最近の日記

もっと見る