『バーン・アフター・リーディング』
オブセッションにしても思い込むにしても、ただ何気に無意識的に感じるにしても、なにかしらの強迫観念は生まれる。志向対象がある限りにおいて、葦はそこへと向かいながら内側へと侵食する。別のエリアに侵食するのである。
初見のときも笑えたけれど、いつもの彼ら兄弟の作品よりもグロくも感じたし、偶然の世界を表しながらもなにか物語空間に閉じたものを感じたし、それだからコーエン兄弟の衰えを感じたし、であるが、二回目なのでゲラゲラと笑いながら、とりあえず観る。美容整形手術によりパーツパーツの改善が求められるが、エスタブリッシュシークエンスでマクロから接近しミクロへと移行するけれど、そこからミクロというパート各々はプロセスにおいて修繕されてゆく。偶然の世界に在るプロセスは、偶然という世界そのものを生んでいる。感情は宇宙だ。
コインシデンスはtHe formatiOn of the univeRseである。出来事は互いにぶつかり合い影響をし合い、生成を生む。それが世界というもの。ユニヴァースである。ミクロにいる人間はマクロからみれば、そうたいしたことではない出来事に怖れ悩みオロオロと行動する。しかしながら、マクロにおいても、この世界がなにか、ということが分かりえない。
人間は分からない世界のパート、そのグリッドのなかで愚かな行動をとる。個性であると思えても、実は似た行為をとっているばかりである。エモーションはそのフォーメーション、愛を形成しながらも、実はそうではなく、愚かさを生みゆく。理性的であろうとする世の中で、理性なぞはグリッドの積み重ねにおいて生れはしない。孤独がその正体を現す。
冒頭、衛星からの視点がマクロからミクロに変わり、ラストはファイルを閉じて、そこからトラックバック、ミクロからマクロへと移る。衛星からの眼差しが表されつつも神の視点が表されているのかなと思ったけれど、やはりあれは、衛星からの視点である。人間が不可避に不透明なものへと共有する眼差しだ。
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