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2006年12月16日18:20

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函館冬紀行4(12月3日)

<江差線>
6時のアラームで目覚めた。
外はまだ暗く、雪が降りしきっている。
身支度をしてチェックアウトし、目の前の駅へ。
早朝の電車に、目と鼻の先の宿というのは何よりありがたい。
函館朝市での食事はあっさりあきらめ、
駅購内にてほたて飯弁当を購入。

一番線、7時8分発の江差線に乗る。
終着の江差まで二時間かけて走る、一両きりのローカル線。
ボックス席で、宿で水筒に詰めてきた緑茶を飲み、お弁当を食べる。
地元民らしき人ばかりの乗客の中で、こんなもの食べてるのは私だけ。
乗客が持ち込む雪が溶けて濡れるのを防ぐためか、
二重窓になった車内は暖房がよくきいていて、
食べ終わるとついうとうと。
目覚めると、電車は一面雪の原野をひたすら走り続けていた。

駅はとても小さい。
電車は一両きりだし、市電と同じように
降りる際運転手さんが乗車券を確認するから、駅での改札はないのだ。
単線を走るのはとてもわくわくする。
郷里の山口線なども一部は単線なのでその感覚が思い出される。
すれ違うものとてなく、風景が常に手の届きそうな近くに見える。
雪は相変わらず降り続き、白く化粧した枝が両脇から迫ってくる。
すぐそこをくねっている川。なにもかもくっきりとそこにある。
おとぎの国をのぞいているようだ。
やがて車窓から雪雲を映して、鈍い銀ねず色に荒れる海が見えた。

<江差港へ>
9時19分江差着。降りる人も少なく、観光客らしき人はいない。
細かい雪が吹雪いていたが、ロータリーで人待ち顔のタクシーは無視して、
雪道をぎゅいぎゅい歩く。
歩く人も車の数も極端に少ない。
向かい風で雪が顔に吹き付けられる。
海に向かって下ってゆく道は直進ではなく、
ゆるやかにカーブしている。
美容院のまえで、女の子が一人、雪遊びしていた。
港に近づくほどに、さみしげで趣のある景色に打たれる。
細長い街灯が雪降る町の風情を感じさせ、
さびれた倉庫に胸がふるえる。またしても私の大好きな世界。
たちまち雪をものともとせず、シャッターを切りまくる。
今からこれでフィルムは足りるのか?

港の小さな船。何かの朽ちたあと。
波は荒々しい。人の手に飼いならされたりしない野生の海だ。色が違う。
みゃー、みゃー、という大きな声が聞こえてびくっとする。
どこからなのかきょろきょろ探して、ようやく頭上だと気付いた。
海猫は本当に猫そっくりの声で鳴くのだな。
江差港アリーナの向こう側に、復元された開陽丸がある。
その手前の青少年研修施設の建物に入り、
雪まみれになった上着をはらってほっと一息。
持ち帰り自由の江差や開陽丸のパンフレット、地図などを、
友達への土産の分までまとめて取り、
土方や榎本の写真、さまざまな結び方のローピング展示などをながめつつ、
建物を潜り抜けていよいよ船へ。

<開陽丸>
http://www.hokkaido-esashi.jp/kaiyoumaru/
近づくとその威容にわくわくする。
パンフレット説明によれば長さ72.8メートル、幅13.0メートル。
高く立ったメインマストは45メートル。
今は帆をおろしているけれど、満々と張った雄姿は如何ばかりだろう。
入り口には「開陽丸は徳川幕府最後の軍艦!」とある。
復元されたのは平成2年というから、もう16年もたっているが、
3年前リニューアルされたそうだ。
橋掛かりから船に入り、おじさんが一人受付しているカウンターで入場料を払う。
船内は私一人の貸切状態で、小一時間それが続いた。

入ってすぐのハンモックに兵士が目を閉じて寝ているのでぎょっとした。
もちろん当時の再現のための人形なのだが、
ご丁寧にも体の上には「寝ています。起こさないでください」の掲示が。
体験用の空のハンモックもあったので乗っかってみたが、
重みでほとんど下までついてしまうので、
あまりゆらゆらは味わえなかった。
奥へ進むと、砲撃準備の人形達もいる。
ボタンを押すと「用意!」「発射!」などの声が流れる。
大砲発射の体験コーナーでは、その声の順通りに
ボタンを押してゆくのだが、
途中いきなり並び順が逆転しているので焦った。

一番奥の映像室で、一人「よみがえる軍艦・開陽丸」を見た。
開陽丸の誕生から最後までを写真資料を織り交ぜながら紹介した映像だ。
幕府がオランダにこの艦を発注し、15名の留学生を送り込んだこと、
たどりつくまでの彼らのひとかたならぬ苦労、
その地で必死に技術を学んだ様子、
その中の一人の榎本が後に軍艦役に任命され、
大阪湾で警護にあたり、
鳥羽・伏見の戦いに敗れた将軍・徳川慶喜が、
この艦に乗って大阪を脱出したことなどが描かれる。

その後榎本は他の艦をも率いて、
遠くこの蝦夷地にまでやってきたのだ。
江差を守るために来た際、暴風雪のため座礁したのが命取り。
幕府軍にとってこの船を失ったことは致命的なことだった。
幕末から明治初めにかけての幕府軍と新政府軍の戦いにおいて、
実に大きな存在感を示した軍艦だということがよく分かる。
オランダでのお披露目の際、開陽という名前は、
「夜明け前」と訳され、美しい名だと賞賛されたそうだ。
陽が開いてゆくのか、なるほど。そう思うと綺麗だ。

見ているうちに歴女であるKさんに連絡したくなって、
「今、開陽丸見学中。面白いです!」とメールを打った。
甲板への階段をあがって表に出ると、
デッキにも雪が降り積もっている。
凍てつく寒さを実感。目の前に見えるのは鴎島だ。
舳先まですすんで海を眺め、舵をまわしてみたりする。
震えながら臨場感にひたっていると、返信のメールが鳴った。
「おおっ開陽丸! 楽しんで来て下さい♪」
彼女がここに来たら好奇心満々で
ガトリング砲のハンドルをかたかた回しそうだ。

外の甲板から降りると、先ほど見て回った砲甲板。
さらにその下の層が居住甲板だ。
ここには実際の開陽丸から引き上げられた遺品や武器などが展示されている。
ゆがんだ形の靴、足袋などは身に付けた人を感じさせて生々しい。
ひしゃげた真鍮のスプーンや器。陶磁器の藍の色は今もって綺麗だ。
滑腔弾の展示で、たくさんの弾を並べて固めた「ぶどう弾」(ドロイフ)
のかたちが特に目をひき、興味深かった。

五角形のテーブルをかこんで軍議中の
榎本、土方たちの人形はいささか貧相な面立ち。
もうちょっとがんばってもらいたい。
榎本武揚の書も展示されているのだが、
「枕上燈残秋月清 奈何徹夜夢難成…」で始まる漢詩が良かった。
「夜を徹して思いをめぐらしても、夢はかないそうにない」
夢成り難し、か。彼にだって迷いはあったのだ。切ないな。
それにしても昔の教養人は漢詩などさらさらと作れる素養があったのに、
今は能力がどんどん低下するばかりじゃなかろうか。

<いにしえ街道>
船の展示が興味深く、予想外に時間をとってしまったけれど、
ようやく港を離れ国道228号線を行く。
都会と違って車の通りが少ない。一台一台の間隔があいていて、
まるでずっと昔の時代のよう。雪は降ったり止んだり。
道沿いに実に風格のある木造の蔵があらわれた。
地図を見ると、以前は鰊御殿といわれた旧家の横山家。
これは壱番蔵だ。
この建物は160年前に建てられたものとか。
北海道文化財に指定されているそうだ。
ここは裏手で、坂をのぼると一本上のいにしえ街道に面して
母屋の入り口がある。
漁業、商業、廻船問屋を営んでいたという昔は、
さぞ活気あふれる場所だったのだろう。

このいにしえ街道がまた素敵建物揃いだった。
街道と坂道との交差点ちかくの姥髪大神宮も古式ゆかしくて良かったが、
名のとおり、昔ふうの風格のある商家や蔵が立ち並んでいる。
町並み保存がきちんと考えられているらしく、
新しそうなものも、他と合わせたようなつくりになっていて、
白緑(びゃくろく)色に塗られた風見鶏の建物なども良かった。
しかしなんといっても本物の古い建物は素晴らしい。
黒っぽい蔵と白い雪のコントラスト、細長い街灯は実に絵になる。

<土方歳三 嘆きの松>
北洋銀行の向かい、町会所会館の上のほうの坂道に、
白とグリーンが鮮やかな洋館と松が見える。
あれが土方歳三嘆きの松?!胸が高鳴った。
今までガイドブックなどでは目にしていたが、
こんな急な坂道の途中に位置しているとは知らなかった。
実際に街を歩くと一番身に染みて感じるのは、
地図には描かれていない土地の高低だ。
それを上り下りしてこそ、自分の体で体験したと言うことが出来る。

上ってゆくと、建物は坂の分岐点あたりに位置している。
鮮やかな白い壁、緑の屋根と窓枠、正面玄関上にはバルコニーが
張り出して瀟洒な雰囲気。この建物は開拓使時代の檜山郡役所で、
明治20年に建てられたものとか。とても綺麗だ。
その前には檜山奉行所が建っていたので、坂の名は奉行坂。
奉行所は旧幕府軍の宿舎として使われたことがあり、
土方も宿泊したことがあったことから、
沈む開陽丸を見ながら、この松を叩いて嘆いた逸話も
生まれたのではないかという。

この松は確かにとても印象的な形をしている。
風のせいなのか何なのか、盆栽の松のように、
片側にぐいっと曲がっているのだ。かなりの古木だろうに、
腰を折りながらも生気にあふれているような気がする。
ここに立って眺めると、確かに海は眼下にありありと見える。
開陽丸の沈没地は、ここからほぼ真正面の場所。
なすすべもなく呆然と沈む艦を見る人たちの脇に、
この松が立っていたことだけは間違いあるまい。

<れすとらん江差家>
開陽丸で時間をくいすぎたうえ、予想以上の風景に夢中になり、
気付けば時間がだいぶ押してきていたが、
食事もとらずに江差を去るのも残念なので、
いったん坂をくだり、追分会館のとなりのれすとらん江差家へ。
http://www4.ocn.ne.jp/~esashiya/

店内には江差追分が流れている。
鰊そばにしようかどうか迷ったあげく、
鰊はお土産のパックを買うことにして、
冬場の特別メニュー・蝦夷岱地鶏のかしわそばを頼む。
脂が乗った鶏肉がやわらかくて美味。スープもとてもおいしく、
こごえた体があたたまる。そばは平たくて結構太め。
ほうじ茶もよい味。おかわり自由だったので、水筒に詰め込む。
「食事のかたは一杯百円でコーヒーが飲めます」という提示のもとに、
コーヒーと百円の入れ物が置いてあった。
なんだか大らかだなあ。

もう切れそうなフィルムが気になり、売店をさがしたが
あいにく簡易カメラしか置いてない。
鰊のパックのほか、友人へのお土産に可愛らしい五勝手屋羊羹を買う。
店員さんに「駅まで徒歩何分くらいでしょう」と聞くと、
30分くらいではないかと言われる。
13時13分発の上りを逃すと大変。急ぎ出た。

<法華寺>
しかしまだ寄りたいところがひとつ残っている。
会津藩士を中心に、新選組隊士たちの墓がある法華寺へ。
江差家を出てまたまっすぐいにしえ街道のほうへ上り、
さらにその先の馬坂を越して左に進むと、階段の上に寺がある。
この坂はかなり急なので、そのぶん高みから海がよく見える。
境内に足を踏み入れ、来たほうを振り返ると、
門の向こうに、額縁にはまったように海が見える。
雪はしばし止んで、空の青を映した色。
思わずシャッターを切ると、これがフィルムの最後だった。
時間切れで賊軍塚まで確認できず。

<江差駅へ>
朝9時19分に着いて、帰りは13時13分の下りに乗り、
木古内で乗り換えて八戸へ、八戸から東京へという予定は
絶対に変更不可能だった。
なにしろ上り、下りとも、日に4本しかない江差線は、
間が3時間もあいている。
これを逃すと次は16時をまわってしまって東京に帰れない。
ちいさな街のようだし、4時間あればまずまずか、と思っていたのは甘かった。
最初に船で遊びすぎたし、そのほかも興味をひくものだらけ。
地図を見ると戊辰の役戦士の墓だの郷土資料館だの
東本願寺、西本願寺それぞれの別院もある。
雪の坂道では回りきれなかったのだ。

後ろ髪をひかれながらきょろきょろしていたので魔が差したのか、
あれ、もうつくはずだけど、と思った瞬間、
道の曲がりを間違えてしまったことに気付いて血の気がひいた。
なんてことだ。頭のなかが真っ白になって、足ががくがくする。
ちょうど近くから発進しようとした車に向かい体当たりの勢いで
「すみませ〜ん!!駅はどちらでしょうか?」と叫ぶ。
人の良さそうな女性が、「歩くとちょっとありますよ。乗りますか?」
と言ってくれて、「ありがとうございます!」と転がり込む。
切羽詰ってものすごい顔をしていたに相違ない。
「何時の汽車ですか?」
「13時13分です。…あの、これ合ってるんですか?」
運転席の時計はすでに13時20分。
「いえ17分進んでます」はあ〜心臓に悪い。

車はごとごとぐるっと回って、小さな駅のロータリーに着いた。
「本当にすみません!助かりました!ご迷惑かけてすみません」と平謝り。
「いえ、困った時はお互いさまですよ」にっこり。
ありがとう、江差のひと。
情けはひとのためならず。私もご恩は誰かに返しますから。
もうホームに停まっている電車に滑り込みセーフ。
ほっとしたら汗が吹き出てきた。最後にドジを踏むところでした。

<帰京>
その後の乗り換えはさしたるアクシデントなし。
盛岡での「こまち」連結が不具合で少し遅れた程度。
もう雪の風景は消え、空には満月に近い月が綺麗に見えた。
ついさっきまで、私は雪の街をころがるように走っていたのではなかったろうか。
ぎゅいぎゅいと雪を踏む感触、頬に当たる風の冷たさはまだ残っているのに、
また雪のない世界に戻ってきてしまった。
でも、今この時も、あそこは雪と風にさらされているのだ。
世界はいつだってパラレルワールド。
盛りだくさんに欲張りな冬の旅だった。
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