『金環蝕』
総理のデシャバリ夫人、京マチ子がアッキーエを想起させる。イシューは違っても、現在という時代においてもチラつく問題である。政治は民のためではなく、富のために稼働する。政界と財界の癒着は自由主義の支柱を支える。
外側は金色でも中身は真っ黒、今ではあまりにも当たり前すぎて、目の前に起こっても気付かずスルーしちゃうぐらいの現前する世界。法律が変わっても、基本なるものは変わりない。モラルが問われるのではなく、人間というものがこの作品には表される。
かつては、戦後のドサクサのなかで金儲けして大金持ちになった、言わば、火事場泥棒が活躍していた時代であったが、この作品が描かれるセヴンティーズはそんなもの、出る釘討たれる時代となる。『にっぽん泥棒物語』と同じように雄弁に主張する三国連太郎も、そうした時代ではなくなった昭和ミドルダイナスティにおいて、精神が変化をきたしている。この時代から現在までも同じように、昏睡状態の久米明総理大臣と同じように、国民もただじっと眠って黙っておかなければならないのである。時代を動かすのは、財界と、財界と癒着する官僚なのであり、彼ら以外は口をつむぐ以外なにも決してしてはいけないのである。
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