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2007年07月15日01:28

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NODA・MAP公演『THE BEE』

7月6日 16:00〜日本語ヴァージョン
7月14日16:00〜英語ヴァージョン シアタートラムにて観劇
http://www.nodamap.com/02thebee2/gaiyou.htm

脱獄犯が自宅に立てこもり、妻子を人質に取っていると聞かされた
帰宅直前のサラリーマン・井戸。
封鎖された自宅前で、詰め掛けたマスコミに
もみくちゃにされて混乱し、
頼るべき警察は高圧的なばかりで役立たずなのに業を煮やす。
ついに自ら犯人・小古呂(おごろ)の家に乗り込んで行き、
警官から奪ったピストルで脅して、犯人の妻と息子を軟禁する。
犯人と電話で話し合うも、交渉は決裂。
閉ざされた部屋の中で、彼の暴力はエスカレートしてゆく…
ちなみにタイトルのTHE BEEは、部屋に迷い込んできた蜂の
羽音におびえて銃を向ける井戸の、恐怖心をあらわしているらしい。

ロンドンのワークショップで作り上げた
現地での英語公演が激賞されたのは、新聞記事で目にしていた。
サラリーマン井戸を女優であるキャサリン・ハンターが演じ、
ストリッパーをしている小古呂の妻を野田さんが演じるという、
男女逆の配役で、二人とも絶賛されたということも。
日本でやることになったら、是非見たいと思っていた。

あらすじは紹介されていても、ディティールを知るのは
実際に舞台を見た時だから、最初はショックが大きかった。
公演順だから、まず観たのは日本語ヴァージョン。
こちらでは野田さんが主役の井戸を演じ、
小古呂の妻を秋山菜津子さんが演じている。
男女の逆転はないし、秋山さんは小気味よく動いて若々しい色気。
だから井戸が彼女を脅し、いたぶり、食事を作らせ、犯してゆくのが
とても生々しく思えて凍りついた。

そのうえ彼は、小古呂が未だ自宅に立てこもっていることに
怒りをつのらせ、
六歳の子どもの指を一本ずつ切り落としては、
警官にそれを届けさせる。
もちろんそれは小道具を使って記号的に行われているけれど、
舞台は想像力をいっぱいに広げて見るものだから、本気で痛い。

井戸と小古呂は合わせ鏡。
毎日相手の息子の指を切り落として送るたびに、
自分の息子の指も切り落とされて届けられる。
井戸が人質の彼女を犯すたびに、
彼の妻も多分小古呂に犯されている。
この不毛な報復の連鎖。

悲惨な繰り返しはいつか現実味を失って、
舞踊のように形式化してゆく。
彼は起き、顔を洗い、髪をなでつけ、彼女が着せ掛ける上着をまとう。
彼女は起き、食事の支度をし、上着にアイロンをかけ、彼に着せ掛ける。
擬似家族のようにちゃぶ台の食事をかこむ時、新しい封筒が配達される。
それとともにまな板と包丁を引き寄せ、子どもの指を淡々と切断する彼。
彼女が封筒を渡し、指が入れられたその封筒ののりしろを舐めて蓋をする。
小窓を開けて警官にそれを届けさせ、彼が上着を脱ぐと夜で、
彼女は彼と同衾する。延々とその繰り返し。
彼は狂っている。彼女ももはや狂っている。
胸に染み入るようなプッチーニのオペラの旋律のなかで行われる無言劇。

やられたらやり返す。それを国と国がやっているのが戦争。
そこからは何も生まれない。不幸が広がってゆくだけ。
アメリカがイラクに対してやったこと。
今、まさにイスラエルとパレスチナがやり合っていること。
そういうことの揶揄であることは、痛いほど分かる。
そしていつも悲惨な目にあうのは女子ども。
とても刺激されて、いろんなことを思う。
ドメスティックバイオレンスを受けている妻って、
まさにこうではないかしら。
圧倒的な暴力におびえ、ただ付き従う。
はむかったりは出来ない。もっとやられるから。
今まで通り、レールの上を走っているほうがまだましだから。
昨日と同じ今日でいい。自ら進んで求められていることをする。
他人の目の届かない家庭という箱のなかで、
今も凄惨な悲劇が演じられている。
無垢な子どもは、まっさきに息の根をとめられてしまう。

登場人物は早いテンポで、TVレポーターやら刑事やら
TV番組の登場人物やらに、瞬時に入れ替わる。
変わらないのは井戸一人だけだ。
犯人の小古呂と下卑た警官の安直(あんちょく)と、小古呂の息子を
同じ役者が演じているのはことに目立つ。
今までどなっていた安直刑事は、井戸に攻撃されてぶっ倒れ、
ひきずり出される時、靴だけがその肉体を象徴して放り出され、
部屋に残った彼はキャップを被って小さく丸まって、
突然六歳の少年になる。
また、母にすがりつく少年から、瞬時に電話の向こうの
小古呂にもなる。その自在ぶりに目が離せない。
そういう異化作用があってこそ、悲惨な展開も見ていることが出来る。

日本語版と英語版を見比べての感想。
やっぱり男が女を犯す、というセクシャルハラスメントは
そのまま男女でやると緊張してしまう。
英語版は、小柄なキャサリン・ハンターが、自分より大きい野田さん
(野田さんも男性としては小柄な方だけど)にのしかかっても、
どこか滑稽味があって、少し落ち着いて見られた。
体位の違いもあるかもしれない。

キャサリン・ハンターの井戸は、予想以上に
サラリーマンをリアルに演じていた。
性差を超えて、こんな大変な役に説得力を持たせるなんてすごい力技。
ただ、英語の台詞の硬質な響きは、
意図以上にこの人物を、エリートに思わせるような気もする。
野田さんの井戸は、最初はちょっと小心な、翻弄される一市民を、
暴発した後には、冷酷そのものな人物像を、
実にすらりと演じて見事。野田さんの真骨頂。

過去の『小指の思い出』など、
野田さんの女役は独特の色気があるけれど、
今回の小古呂の妻役は、すがれた色気だった。
ちょっとくたびれててリアル。
おどおどしてる感じが本当に日本の、
ちょっと年嵩の女房という感じ。
それにしても、加害者側と被害者側の両方、
それも男役と女役の両方を演じられるなんて、
歌舞伎以外ではちょっとないだろう。

強面の安直とちいさな子どもを変わる役者は、かなり大変。
日本語版の近藤良平さん@コンドルズは、こわもて過ぎて、
どうしても子どもに見えなかった。だってヒゲまで生やしてるし。
脱獄犯の小古呂と、安直はとても似合ってた。

英語版のグリン・プリチャードは、
頼りなげな様子が少年っぽくて良い。
逆に小古呂としてはずいぶん気が弱そうだった。
安直はスティーブ・マックィーンかぶれという設定らしい。

百百山に関しては、日本語版の浅野和之さんの右往左往振りが、
とっても日本人っぽくて圧倒的だった。困り果てる様子が素晴らしい。
それに比べるとトニー・ベルは、巨体ながら
そこまで存在感がなかったような。

舞台装置も違う。どちらもシンプルながら、
舞台全体を大きな紙で覆い、
それをやぶったり、寄せたり、穴をあけたりしてゆく日本語版の
やわらかな自在さが好きだった。TV画面も紙芝居みたいで。
英語版のメタリックな装置は、いかにも硬質な感じ。
同じ内容の台詞を言ってるはずなのに、英語で聞くと言葉も
硬く響いているような気がする。

英語版の台詞を聞いて、初めて分かったのは
語呂合わせの冗談のような小古呂の名前。
小古呂五郎=ゴロオ・オゴロ あ、そういうことだったのか。
日本語だとすらっと聞き漏らしてしまった。
さらに、井戸という名前は、漢字抜きでイドと聞くと、
フロイトの言うエゴとイドを連想する。
エゴ(自我)は意識層の中心。イド(エス)は無意識層の中心。
なんだかとても象徴的な名前。
彼の暴力性は、無意識のなかに眠っていたのだろうか。

夢の遊民社時代からずっと音響・効果などを担当してきた
高都幸男さんの選曲は、今回も素晴らしい。
後半の舞踊のような無言劇に流れるプッチーニのみならず、
『剣の舞』のメロディーに歌詞を乗せた歌も
強烈に印象的だった。
♪好きか嫌いか嫌いか好きか
 はっきりさせてよ 今すぐ目の前で
 それにつけてもお前は素敵
 まるでペルシャかトルコの姫君か
まだ頭のなかをぐるぐる鳴り響いてる

観ただけでは、ちょっと分かりにくいけれど、
舞台背景は1970年代の東京。
だからか、舞台が始まるまでの客席には、
70年代のなつかしの歌謡曲がずっと流れている。
天地真理の『水色の恋』とか、伊東咲子の『ひまわり娘』とか、
南沙織の『情熱』とか、キャンディーズの『年下の男の子』とか…
あらためて、じっくり聴いてみると、
皆なんて健やかで良い歌だったことか。
その先に、こんな時代がやってくるなんて、思いもよらなかった。

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